遼海航路

 靄(もや)のかかった水平線に日がのぼり、かびくさい建物のひとつひとつを朝日が照らし始めた頃、どこからともなくわくようにひとびとが通りに姿を現す。猿や蛇の姿をのこした猿奴(えんぬ)や蛇奴(だぬ)、食器や古物から生まれたつくもがみ、山姥などの異端が垣根なく住まうこの街は、まるでさまざまな色の絵の具を、不作法にかきまぜたようである。
 うねりながら続く表通りには、出店がすきまなく並び、店の者たちはめまぐるしく働いて、次々と軒へ立ち寄る客らに、朝食をふるまっている。種族ごとにさまざまな趣向の店があり、それが一堂に会するのだから、辺りは混沌としたにおいで満ちていた。
 こぼれそうな目玉が顔の左右についた魚奴(ぎょぬ)が、威勢よく客を呼びこむ声が聞こえた。彼らがふるまっているのは、生きている虫を米の中に乱暴につっこみ、それを海藻でぐるぐると巻いたにぎり飯だ。
 そのすぐ近くで、だだんとまな板を叩く音がした。向かいの屋台のまな板の上で、小魚が包丁に叩かれ、砕かれていく。においで気づいたのか、向かいの魚奴の店主がわずかに不快を表情に浮かべ、手際よく魚を調理する猫奴(びょうぬ)の女をにらんだ。猫奴はその視線に気づきながら、「さあよっといで! 新鮮な魚ならうちだよ。身はぷりぷり、骨はかりかり、飛び出た目玉までうまいよ!」と声をはる。
 向かいの店の客は当然魚奴たちで、彼らもこの厚顔な猫奴に文句を言い始めた。いっせいに口を動かすさまは、池の鯉を彷彿とさせる。魚のどんぶりをかきこむ猫奴や熊奴(ゆうぬ)の客たちがそれをあざ笑うものだから、魚奴はいっそう激しく口を動かした。
「やめろ、飯がまずくなる!」
「ぱくぱく、ぴちぴちとうるせえ!」
 ついにはお互いに罵声をあびせはじめた。飯を食いながら言い争っているものだから、両者の間には食べかすが飛んで、道を汚した。白い狩衣を着た少年が、足もとに飛んできたみみずを見て、眉間に深いしわを刻んだ。
 くせのある黒髪の間で、つややかな毛におおわれた、厚い耳が神経質にとがっている。小さな笛をさした腰帯の下からは、ふっさりとしたしっぽが出て、地面を叩くように、規則的にゆれている。街の背後にそそり立つ山の社を守る、黒狐の一族であった。名を与次郎という。
 与次郎はほかの通行人を壁にしながら、騒がしい両店の間を通過して、ため息をついた。ふだんは静かな山で他種とあまり関わりを持たずに暮らしているものだから、街のよどんだ空気やけたたましさには、どうにも慣れることができない。また、汚れた一張羅に身をつつんだ通行人のなか、洗いざらしの狩衣は目立つ。忙しく往来するひとびとも、この黒狐の少年に一瞥をくれて行くので、どうにも居心地が悪かった。
 しかし師である祖父の使いで、街に降りて来ることがある。朝夕の混雑は大の苦手であったが、早いうちに買い物をすませて、日々のつとめに戻らなければならなかった。

 目当てのろうそく屋に入り、接客中の店主に声をかけると、彼はすぐに承知して「少々お待ちくださいね」と答えた。店には色とりどり、大きさもさまざまなろうそくが売っているが、与次郎が買っていくものは毎度決まっている。先客の狸奴(りぬ)の女は、表面に花の絵が描かれたろうそくを何本か買っていた。
 「お祭りですか」と店主がたずねる。狸奴は「ええ、一族のお祭りなのよ。ご先祖さまにささげるのは、派手できれいなろうそくじゃなくっちゃね」と、おしゃべりに答えた。お祭り好きな狸奴らしいと、与次郎は鼻で笑う。
 彼女を送り出したあと、店主は与次郎のために、茶紙につつまれたろうそくの束をさらに風呂敷でつつみ始めた。与次郎は代金をガラス棚の上に置き、慎重につつみを差し出す店主から、品を受け取る。与次郎の細腕に筋肉が浮いた。
「いつも一人でたいへんですね」
「いえ、たいしたことはありません」
 ぎこちないあいさつを交わし、与次郎は店を出た。雲が街の上をおおって、早くもむし暑くなってきている。

 朝の混雑はおさまったろうが、もう一度表通りへ戻る気になれず、与次郎は反対へ歩き出した。
 詰めこむように、連続して建てられた住居の間をぬっていく。ときおりひとの声がするが姿は見えず、住宅街はしんと静まっていた。ほそい道の端に掘られた排水溝から立ちこめたにおいが、鼻腔を刺激する。天気はさらに不穏になり、頭上から曇天がおおいかぶさって来るようだ。圧されるように頭の奥が痛み始め、与次郎は舌を打った。近頃たびたび感じる頭痛であった。
 そのとき風にまじって聴こえた音が、耳をくすぐった。与次郎は重い足を止め、息を切らしながら辺りを見まわす。建物の間から見えるわずかな空の間を、なにかの音色がただよっていた。
 与次郎は末期の水を求めるように力をふりしぼり、急な階段をよじ登っていく。耳の奥まで届いてふるえる琵琶の音が、だんだんはっきりとしてくる。踊り場まで来たときには、額からひや汗がにじんでいた。与次郎は壁に手をつきながら、音の出所を探す。すると傾いた屋根の上に、小さな人影が乗っているのを見つけた。
 濃い紫の外套を着た人影は、屋根の上にあぐらをかき、ごみごみとした街を見おろして、ゆったりと琵琶を鳴らしていた。旅人なのか、街の者とはたたずまいが異なっていた。けれど彼は我がもののように堂々と屋根に腰をおろし、琵琶を奏でている。
 得体の知れない背中にいらつきを覚え、「なにをしている」と、与次郎はとがめるように声をかけた。琵琶の音は動じずに旋律を奏でていたが、波が引くように徐々に静かになっていった。最後の一音がびいんと空に放たれたあと、人影はやっとこちらをふり返った。
 風になびく灰がかった髪の下に、緑青の水晶のような瞳がのぞいた。とがった耳以外さして特徴がなく、何者なのか判別がつかない。彼は立ち上がり、琵琶を片手に与次郎の方へやって来る。意外なことに、与次郎とそう歳の変わらぬ子どものようだった。激しく風が吹き、彼の髪がはためくと、額に生えた二本の角が見えた。
――鬼だ!
 思わず叫びそうになるが、驚いて息とともに言葉を飲みこんでしまう。鬼は人間以上に珍しい、希少種である。あらぶる神の末裔で、強い腕力や霊力を持っているという。体は蛇奴(だぬ)や熊奴の倍はあると聞くが、近づいてくる鬼は風に吹き飛ばされそうなほど小柄だった。
 鬼は与次郎の目の前まで来ると、彼の目を痛いほどまっすぐに見つめて、首をかしげた。
「琵琶を弾いている」
 高い声だった。相手が少女の鬼だとわかると、与次郎はとつぜん恥ずかしさでいっぱいになり、顔に朱がさした。
「見ればわかる! おれが聞きたいのは、なんで、こんなところで……」
 歯切れ悪く言いはなつと、「弾くのに理由はない。ただ――たのしかったから」と、街をふり返りながら鬼は答えた。与次郎は鬼と眼下に広がる街を交互に見る。
「たのしい? この、汚い街がか?」
 鬼は街の様子をつぶさに眺め、その景色を吸いこむように深く呼吸をした。
「弾こう」
 鬼はとうとつに言い、めざとく与次郎の腰の笛を見つけて、指さした。
「え、おれは……」
「吹こう!」
 鬼は声をはずませて、与次郎につめ寄る。緑青の大きな目が居心地悪く、顔をそらした与次郎の腕を、ひんやりとした指がつかんだ。与次郎が制止するのも聞かず、鬼は彼の腕を引いて、屋根の端へと連れて行く。与次郎は、ゆがんではがれ始めた屋根板につまずくが、鬼が強く前へ引くので、そのまま屋根の上を駆けた。
 もと座っていた場所まで来ると、鬼はぴたりと止まった。与次郎もなんとか踏みとどまるが、屋根の端から地面が見え、胸が早鐘を打った。そのとなりで鬼は平然と腰を下ろし、琵琶を抱く。白く細い指が、弦の上を踊り始めた。一本一本、軽やかに弦を鳴らす弾き方は、ふつうの琵琶の弾き方とは違う。鬼は空を見つめ、景色の中から一粒ごと音を拾うように、弦をはじいた。
 平凡な街の景色の中に、いったいなにを見ているのかと与次郎は戸惑った。山から見下ろすのと変わらぬ風景、いや近くなった分、より雑然とした様子がよくわかる。そんな風景でも、よそ者の目には新鮮に映るのだろうか。
 琵琶の音が、戸を叩くように与次郎の心の臓にあたってくだけた。弦からさらにのびた糸が体の中にしのびこみ、ふるえていた心臓に結びついていく。するとずっと続いていた頭痛が不思議とおさまっていき、今度は息を吹き返せと、心臓をゆすられ、どんどんと鼓動が速くなっていった。これも鬼の霊力なのか、理屈のわからない感覚に与次郎は恐怖と、そして興奮を覚えていた。
 呆然としている与次郎に、鬼が目配せをする。従わなければ食われてしまうかもしれない、そんな考えが頭をよぎり、与次郎はそこへ座りこんだ。荷物を後ろへおろし、あやつられるように、腰の笛を取り出す。神楽に使う上等な笛ではない。仕事に疲れたときに、気晴らしに吹く、おもちゃのような笛だ。それに与次郎自身、即興で合わせるほどの腕はない。けれど鬼は誘うように琵琶を弾き続ける。与次郎は頼りない腰つきで立ち上がり、小さな笛の穴に下唇をあてる。
 のびやかな一音が響き渡った。まだためらいを含んでいたが、まっすぐで、澄んだ音だった。するとその音を追いかけるように、琵琶が楽を奏でる。なにか曲を吹かなければと頭の中を探るが、どうしたわけか一つも出て来ず、ただ唇からは自然と音が飛びだしていた。鬼の琵琶が導くのか、知らぬ音、知らぬ曲が勝手に、機織りのように紡がれていく。
 笛の音を主旋律として、琵琶の音がそれにからまり、二つの音はふくらんでいく。鬼が始めはうなるように、そしてだんだんとささやくように歌をうたい始めた。異質であるはずの音同士が、同じ祈りを持って高まり、閉ざされた扉を開いていくようだ。閉じた扉に向かって、楽の音は開け開けと幾度もぶつかっていく。すると曇天のはざまから、輝く日光が鋭くさしこみ、街の中心を照らした。汚く思えた建物の色があざやかに反射し、与次郎は思わず目を細めた。与次郎が吹けば吹くほど、鬼が奏でれば奏でるほど、見飽いていた景色が徐々に色を変えていった。
 楽の音の中に、力強い太鼓の音が聴こえ始める。迫ってくる音の正体は、与次郎自身の鼓動であった。心臓が鼓を打ち、血液が脈打って、体中を駆け巡る。その力強い音が、内側から与次郎をつき動かした。それだけでなく与次郎の耳には、鬼の少女の鼓動もたしかに聴こえていた。彼女が静かに昂ぶり、興奮しているのが、声や琵琶の音から伝わってくる。切羽詰まった与次郎と違い、彼女は自分の昂ぶりを受け入れ、たのしんでいるようであった。
 与次郎は初めて知る熱に浮かされていた。楽の音は止まらず、額から熱い汗が噴き出す。鬼にまやかされているのではないかと疑うが、唇から出る音は与次郎の鼓動の音で、始めから自身の中にあったものに違いなかった。小さな黒狐がこの世に生まれ出でたときから、とっくに始まっていた楽の音なのだ。
 雲が開き、日の光が街全体をきらきらと輝かせている。与次郎が知っているのとは、まるで別の街に思えた。色あせてまだらになった屋根の色が、万華鏡のように光を放っている。通りを行き交うひとびとの動きは、絶え間ない律動を刻み、混沌としたざわめきからは常に新しい音が生まれていく。
 海と街の間にただよう霧が薄くなり、珍しく水平線が顔を出した。暗い波がよりいっそう街の光を際立たせ、そのまぶしさに与次郎の目から涙があふれた。与次郎の心は裸になっていた。小さくて、臆病な黒狐であった。あらゆる刺激が無防備な体に降り注ぎ、肌がざわついてひりひりと傷む。それでも与次郎は裸でいたいと望んだ。閉じこめていた自分の鼓動や声を、もう無視し続けることはできなかった。
 理由のわからぬ頭痛や気分の悪さも、もしかしたらそんな自身の叫びを無理に封じこめていたからなのかもしれない。解放してはならない気がして、意味もなくおそれていたが、いざ本当の心を表に出してみると、それは我を忘れるような快感であった。足がよろめき、思わず屋根を踏みはずしてしまいそうになる。けれど琵琶の音が後ろから彼を抱きこむように広がって、与次郎は熱に浮かされながらも、しっかりと足を踏みしめた。
 そうして永遠に奏でていたいと思った。自分と、鬼と、この天と地のはざまの美しい光景の中で、ずっと身をひたしていたいと。けれど地上の生き物が長く水中にはいられぬように、そろそろ波間から顔を出さなければならない。鬼の導くまま、ゆるやかに楽の音はおさまっていった。
 ようやく笛から唇を離した与次郎は、その場にへたりこんで、必死に息を取り戻した。気づけば体は汗でずぶ濡れになっており、衣が肌にはりついている。鬼もわずかに頬を上気させ、息をはずませていた。
「――海へ、行こう」
 息つぎの合間に告げたのは、与次郎の方であった。

 二人は幼なじみのように手をつなぎ、向こう見ずな勢いで坂道を下った。ようやく海岸まで来ると、荷物を放り、楽器を砂浜にあずけ、上着を脱いで水の中へと飛びこんだ。高い波にあらがおうとする与次郎を、鬼は水中で笑って、先へと泳いでいく。何事もたくみにこなす鬼がにくらしく、与次郎は負けじと深くへもぐっていった。つめたい海水が髪を洗い、体を洗う。そうしてすべてを置きざって、未知の場所へと水をかいて進む瞬間は、不安ではあるが胸が躍った。

 夜闇の中、またたくたき火が濡れた衣をあぶる。与次郎と鬼はほとんど裸のまま、砂浜に寝ころんで、星空をあおいだ。
「おれはあの山にあるお社に家族と住んでるんだ。おれの一族は、ひいじいさまの、ひいじいさまの、そのまたひいじいさまの頃からずっと、お社をお守りしてるんだ。いずれおれも禰宜(ねぎ)にならなきゃいけない。
 神さまに仕えるって、地味な仕事なんだ。朝早くに起きて、まず滝で禊ぎをする。夏だって山は涼しいから、体の芯に釘を打ちこまれたみたいになるよ。それなのに、冬だって関係なくやる。休みなんてないんだ。禊ぎをして、火をたいて、たくさんのろうそくに火を灯して、神さまを起こす。ろうそくだってただのろうそくじゃだめだ。ろうを溶かして、乳香で香りをつけて、蘇芳と藍で色をつける。
 朝のおつとめが終わったら、そのろうそくを作ったり、神さまからいただいた水で酒を作ったり、山のように仕事が待ってる。そうやって毎日決まったおつとめをして、一年が過ぎて、また同じ一年が始まって、年をとって死んでいくんだ。
 おじいさまはさ、『この世をつかさどる、神さまのお手伝いをしてるんだ。わしらの仕事はほかの誰にもできない、神聖な仕事なんだ』って言うけど。おれは神さまなんて見たことないよ……。街の連中だって、今じゃもう誰も神さまのことなんて信じてないし、知らないやつだっている。本当に神さまはあんなやつらを、あんな世界を作ったのかなって。そんな仕事を手伝って、なにがたのしいんだって……」
 鬼に向けてか、星に向けてか、独り言のように与次郎は語った。
「――こんなに世界がきれいに見えたのは、初めてだ」
 ぽつりと呟いた瞬間、頭の中で火花が飛び、さまざまな光景が脳裏によみがえった。幼い頃見上げた満天の星空、父に抱かれてながめた、雲海に沈んだ街、海に浮かんだ蜃気楼。今の今まで、すっかり忘れていた光景がとつぜん現われ、まばゆいばかりに視界をおおう。与次郎の見開いた目に涙が浮かんだが、彼はぐっとそれを飲みこんだ。
「おまえは、どこから来たんだ?」
 静かに空を見上げる鬼に、与次郎はたずねた。
「遼海の向こう」
 鬼は短く答える。
「船で来たのか?どうして、この街に来たんだ?」
 与次郎は続けてたずねるが、鬼はだまって星を追っている。
「じゃあ、名前は?」
 一日中ともに遊んだというのに、まだ聞いていなかった。言葉より先に音で語り、力の限り遊ぶ中で、お互い名前は必要なかった。
 答えないかと思った鬼が、唇をとがらせて「彗(すい)」と言った。その様子がなんだかかわいらしくて、与次郎は笑みをこぼした。
「おれは与次郎。――彗は、この街が好きか?」
 そうたずねると、彗は破顔して「ああ、大好きだよ」と答えた。与次郎は泣きそうな顔で笑って、「そうか」と吐息をもらした。そして起きあがり、天と彗の間にわって入った。透き通るような頬にふれ、まだ濡れている髪をかいてやった。それからおそるおそる、短い角にふれる。かたい骨のような感触だった。彗は目をふせて、されるがままにしている。与次郎が彗に額をつけると、間近で緑青の瞳が見つめた。どこに続くかわからない、海の色に似ていると、与次郎は思った。

 水平線にまた日がのぼり、二人は乾いた衣に袖を通した。
「行くのか」
 琵琶を背負う彗に、与次郎がたずねる。
「いっしょに逃げるか?」
 彗はぶっきらぼうに言った。与次郎は少し黙ったあと、首をふった。
「おれは帰るよ」
 与次郎の声も表情も、ひどくさっぱりとしていた。彗は口角をあげて笑う。
「じゃあな」
「ああ」
 二人は背を向け歩き出したが、与次郎は数歩進んだところで立ち止まり、後ろをふり返った。彗は出会ったときと同じ、飄々とした風情で、まっすぐ砂浜を歩いて行く。今ならまだ間に合うかも知れない。呼び止めて、ともに旅に出られるかもしれない。変わらぬ日々をこの街で過ごすより、彗といる方がよっぽど楽しいかもしれない。
 与次郎はそんな思いつきを笑い飛ばし、ふたたび彼の道を歩き始めた。砂の中に刻まれた二人の足跡を、風と波がさらっていく。


了