ディア・マリー

 透き通ったグラスに、赤い液体が注がれていく。折れそうなほど細い腕が無造作にボトルを傾けて、グラスのなかでウォッカとトマトジュースが踊った。彼女の動作はいつでも奔放だが、なにかの儀式のように秘密めいていた。
 はっきりとした顔立ちではないが、熟れたオレンジのような金髪の色彩が、眼球の奥に焼きつく。こうでもないああでもないと、美容師を散々困らせて作った色なのだと、彼女は得意げに語った。
 どうしてその色なのとたずねると、無邪気におしゃべりをしていた彼女が息をひそめた。画家と画商の関係を越えて、初めて二人きりで食事に出かけた夜だった。肉の脂でぬれた唇が真横に引かれた。「赤に合うからよ」そう彼女はささやいた。
 小さな画廊につとめる僕は、二週間きりの個展のために届いた作品をほどいていた。箱のなかから現われた作品に、僕はすべての臓物を引きずり出されるような感覚をおぼえた。あざやかな空や、太陽に照らされた人々の笑顔。一見ポップアートのような、若々しく底抜けに明るい絵だ。しかし画面の底辺に横たわる暗い影の色が、万象をまるで児戯のようにあざ笑い、そして母のように抱きこんでいた。
 僕はその無名の新人画家を売り出すことに、全精力を費やした。さらに僕たちはある儀式をして、融けあうようにパートナーとなった。
 アトリエを兼ねる彼女の自宅に、僕は招かれた。さっぱりとした空間の中央に、イーゼルに身を預けたキャンバスがたたずんでいた。キャンバスには目鼻のおぼろげな人物が描かれていた。彼女はキャンバスの前に僕を座らせ、「いっしょに仕上げをしましょ?」と、耳元に吐息をふきかけた。彼女は僕の手をとり、ステンレスの果物ナイフを近づけた。反射的に肩がはねたが、なだめるようにほほ笑む彼女から、逃げようとは思わなかった。
 ぷつり、と皮が切れ、人差し指の先端から血の珠がにじんだ。彼女が僕の手に指をからめ、キャンバスへと誘う。僕の血が白いキャンバスへとしみこんでいく。するとぼんやりとした人物の表情が、みるみるうちに輝き始めた。血で影を落とされるたび、鼻や唇が浮かびあがり、目が開いてこちらを凝視した。それは僕の肖像画だったのだ。
 僕はさらに深く彼女の手助けをするようになった。平たく言えばそれは殺人だった。彼女の作品に必要不可欠な影の色、それは人の血と油絵の具をまぜたものだった。彼女に近づく男を殺し、血を抜き出し、それを絵の具へ精製した。
 彼女はますます思うがままに翼を広げて、作品を制作し、発表し続けた。また彼女の派手なスタイルがメディアにも受け、広告デザインなどにも作品が使われるようになった。
 人気や収入は大して重要ではなかった。誰もが、本当は彼女の描く暗い影に抱かれたがっている。それに気づかず、まぶしい色彩や絵柄に飛びついてくる民衆の様子が、僕らのなによりの娯楽であり快楽だった。
 けれどだんだんと、彼女のなかで歯車が狂っていった。もてはやされて酒を飲んで、倒れるように帰ってきては、泣いて部屋中のものをひっくり返した。彼女の作品を理解しない世間へのいらだちを爆発させ、それをごまかすようにまた外へ出て、軽薄に笑って騒いだ。彼女の命が長くないことは、誰の目にも明らかだった。しかし僕は崩壊のなかで、彼女が彼女の芸術の頂点へと近づいていることを予感していた。
 少し冷える秋の朝、僕はトマトジュースの瓶に粉末を注ぎ、フタをしめてウォッカの隣りへと戻した。彼女は昨晩出かけたきり、帰っていなかった。
 憔悴した様子でタクシーを降りて、彼女は帰ってきた。僕が執拗に責めたてると、彼女は逆上し、床にばらまかれていた金槌で、僕の頭を打った。泣きながら甘えるように殴り続け、僕はあっけなく死んだ。彼女はいつものように死体から血を抜き、絵の具を作った。
 彼女は何日も部屋にこもり、ひたすらキャンバスに向かった。僕の血をすくい、夢中でキャンバスに広げていく彼女を、絵のなかから見つめていた。まるで霧が晴れたように、彼女は生き生きと絵の具を伸ばし、ついに自身の芸術の極みへと登りつめたのだった。
 すべての作業が終わると、彼女はいつものように、ウォッカとトマトジュースをグラスに注ぎ、ブラッディ・マリーを作った。そして赤い液体で満たされたグラスをつかみ、キャンバスの前へ戻って来る。外から差す白い光に照らされた彼女は、すっかりやせこけていたが、信仰に身をゆだねたミイラのように高貴であった。杯を傾けた彼女の口端から、赤い糸がたれた。カクテルより深く美しい色の液体が顎をつたい、床板の上へ落ちた。