安達ヶ原



 その夢はいつも、女のうめき声から始まった。
 闇のなか、女のそばで何者かが石をはじき、起こした火種をうすい木片に移した。小さな炎が宙をたゆたい、油皿の端に留まると、松の油に映りこんだ炎が、音をたてて表面に広がった。
 炎に照らされ、ぬうと現われた老女の顔が、声をもらす若い女をよくよく眺めた。額に汗を浮かべ、歯を食いしばって必死に息をしている。開いたままの唇から、大きくふくらんだ腹の方へ、老女の顔が移ってゆく。女が悶えて呼吸するたびに、腹が上下した。その腹のなかにあるものを見透かすように、老女は目を細めた。
 女がひときわ大きな声をあげ、老女は我に返ってそちらへ身を戻す。
「心配しなさるな、苦しいのは今だけじゃて」
 老女が笑って声をかけると、女は頷き、唇の間から返事をもらした。老女は満足そうに、邪(よこしま)な笑みを浮かべた。
 灯りをかたわらに置き、枯れ枝によく似た指で、女の腹を確かめる。そしてもう片方の手に握った包丁を、その上にそわせた。女がうめき、老女は包丁を自分の陰へ隠した。
「おお暑かろうな、大事ない、大事ないで、このわたしに任せおれ」
 老女の手が女の帯をゆるめ、衣をはだける。闇のなかに女の白い肌が現われた。若い肌に玉の汗がつたうのを目にした老女の顔が、苦しげにゆがんだ。煮えたぎった憎しみをもはや隠そうともせず、血走った眼球がこちらに狙いを定める。
 夢を見ている私は、女の腹のなか、胎内の水に包まれているのだった。母の体のなかにいるというのに、私には外で起こっていることがはっきりと見えていた。
 老女が不気味な手つきで母の腹をなで、おもむろに包丁を握りなおす。切っ先が迫ってくるのがはっきりとわかるのに、やはり胎児の私にはどうすることもできないのだ。
 母がうわずった悲鳴をあげる。刃が母の体を裂き始め、母が身をよじり、私の視界は二転三転した。
「これ! 暴れては子が危のうなる、辛抱せい!」
 老女が叱咤すると、もがきながらも母はそれに従った。傷つけられているというのに、母は私が産まれることを信じて、耐えてしまうのだった。老女はしたりと口端をゆがめ、うわべだけ慰めの言葉を口にし、さらに刃を突き刺した。
 ついに切っ先が私の目の前に現われ、私はなんの準備もないままに、外気へとさらされた。母の体越しに見ていた老女の狂気のまなこが、いまや直接、私を見つめていた。
「姫さま、環子さま……」
 顔を血で染めた老女が、うつろに呟いた。
「おまえの生き肝=@があれば、姫さまは助かるのじゃ……」
 老女のかたい手が、母の内臓とさして変わらぬ、やわらかい私の頭をつかんだ。少しでも強く握られれば、できたばかりの頭骨はつぶされてしまいそうである。
 母の呼吸はすっかり弱々しくなっていたが、呼吸の間に、必死で言葉をつむごうとしている。
「もうおまえさまは死ぬのじゃ」
 老女の吐き捨てた言葉も、母にはもう聞こえぬようだった。唇をひきつらせ、なにかを訴えている。老女はわずらわしそうに、そちらを見やった。
「母に、伝えてください……」
「おうおう伝えてやるとも、安心してお眠り」
 老女は私の頭を押さえ、包丁の先を胸と腹の間へ突きつけた。
「京にいる母に、知らせて……」
 最後の力をふりしぼって、言葉をつむぐ。
「母に、母は……岩手と、いいます……」
「なんじゃと?」
 母の言葉が聞こえなかったのか、色を失った母の唇に、老女が耳を寄せた。包丁の刃が私のへその尾を切り離す。
「これ、母に……」
 緩慢な動きで母は着物の間に手を入れ、緋色の守り袋を取り出した。身を乗り出してそれを見つめた老女の瞳孔が、小さく収縮して震えた。
「なぜそれを、なぜ、な……まさか」
 老女は恐れをなしたように、突然私をはなしてあとじさった。
 そのとき家の戸が開け放たれ、洞窟のように狭い屋内に寒風が流れこんだ。入り口に立った若い男は、凄惨な光景に言葉を失い、立ちすくんでいた。
「なぜ、お、おい……!」
 私の父であろう男は母のもとに駆け寄り、おそるおそる肩をゆすった。しかし母に答える力はなく、父が拾いあげた手はぐったりと床に落ちた。
 泣くことも忘れた父の背後に、老女の姿が亡霊のように浮かびあがった。奇声をあげて父の背中に襲いかかり、父の体が衝撃に揺れた。老女は声をわななかせながら、いま一度刃を振り落とす。父は赤子の私をおおうようにし、凶刃を受け続けた。
 父の手がこちらへ伸び、母の体内から私を注意深く拾いあげた。そして小さな私を懐に抱くと、つかみかかろうとしていた老女を押しのけ、開いたままの戸口から飛び出した。
 野のなかをすすきになでられながら、父はひた走った。落涙をたたえた赤い月が、無情な野原を照らし、すすきに落ちる父の影をいっそう濃くした。
 走りながら父は、「泣け!おい、泣け!」 と繰り返した。独り言のように、私に呼びかけているのだった。思えば母の胎から突然取り出された私は、目も口もぴったりと閉じて、未だ産声というものをあげていなかった。開けねばならぬと思うのだが、どうやったらいいものか、口というものはどこにあったのか、さっぱりわからない。それに気づいた途端、息が苦しくなり、だんだん体が重くなっていく。
 鳥のざわめく野のなかで、父の歩みが止まった。地面に頬を寄せて倒れている父の顔は、母と同じようにすっかり青白くなっていた。それでも父は私に、「泣け、泣け……泣いておくれ」 と呼びかけ続けた。

安達ヶ原



 夢はいつもそこで途切れた。褥(しとね)の上で私は飛び起き、痙攣する体を押さえながら、必死で呼吸を取り戻した。すっかり夢が覚めたのかどうか確かめようと、部屋のなかをぐるっと見まわす。明け方の光に照らされた室内が見知った寺内とは異なり、不安が胸を突いた。みがかれた古い畳になじんだ柱や梁、そして枕元に置いた自分の荷物を見て、ようやく記憶が戻ってきた。昨日一晩の宿を頼んだ、古寺の一室にいるのだと。
 ふすまを開けると、太陽はすでに山の端から離れていた。夢のなかで不気味に揺れる油皿の炎とは違い、すがすがしく、地上を浄化するような光だ。井戸から汲みあげた水で、首筋にねっとりとからみついた夜闇を洗い流す。初秋の冷気が一気に体を冷やしたが、冴えざえとしたその感覚が心地よかった。
 部屋をかたづけ、廊を本堂へと渡る。年老いた住職の読経が、小さな寺内へ響く。本堂のなかで、この寺に一人で寝起きする老僧が、板張りの床にじかに座り、一心に読経をしていた。ここには仏像もない、なにも特別なものは置かぬ堂のなかで、着物を一枚まとっただけの老僧が祈りに没頭していた。
 入り口の脇へ座り、私も声をあわせて読経に入った。
「よくよく身についておられる。おまけに声がいい。いつ仏門へ入られたのか」
 勤めを終え、自ら用意した朝餉に箸をつけながら、老僧がたずねた。
「赤子の頃に拾われ、ずっと嵐山の寺で育ちましたので」
 孤児が寺で養育されることは、さして珍しくもない。「さようか」 と老僧は頷いた。
「それで、都で生まれ育ちなすった貴僧が、なにゆえ安達ヶ原を訪れるのか」
 昨日、安達ヶ原の名をたずねたときも、老僧の表情は冴えなかった。
「探しに来たのです、あるものを」
 老僧は私の言葉を待った。
「私は幼い頃から、父母の死の記憶を何度も夢に見るのです。しかし苦しくも悲しくもない。仏の教えをずっと説かれて来たからではありません。私には他の人々が感じる、喜びというものがわからないのです。すべてはいずれ無に帰す――」
 老僧のこしらえた汁を一口飲みこんだ。
「たとえ過去に戻れたとしても、私には父母を救えないでしょう。けれど、なぜか戻って来なければいけなかった。探しているのは、その理由です」
「それが安達ヶ原にあると……」
 眉間にしわを刻みながら、老僧は汁をすする。
「貴僧が悟りに至れるのか、見届けるのがわしの役目かもしれんな」
 うすくなった髪が首にかかり、一枚衣ははだけて、老僧のあばらが浮き出ていた。あぐらをかいて椀を傾ける様子は、高貴な乞食のようである。
「もやが出てな、一度入ったら出て来れないと言われる場所じゃ。それゆえに、口減らしで人を捨てる者らはあそこへ行く。しかし出て来られないのはもやのせいではない。あそこには鬼がいるのよ。鬼が迷いこんだ人間を食べる。そうしてどんどん、大きくなっているのだ」
 ただ合点する私に、老僧は満足したような表情をする。
「鬼が恐ろしくはないか」
 もう一度彼は問うた。
「はい。鬼には、とうに憑かれておるのです。もしやすると、産まれるずっと以前より」

 古寺を出て、二つ山の間へ入り、いずれ道もないすすき野原に分け入った。まだ昼間だというのに、いつの間にか空は黄昏に染まり、姿の見えぬ鳥の声が、私をあざけるようにこうこうと鳴いていた。河の近くだからか、湿って重くなったすすきが、一様に頭を垂れている。野のなかにたまった気が裾から忍びこみ、くるぶしから体の内までをじっとりと冷やしていく。歯がこまかくぶつかり音を立てるのだが、こめかみからは汗が噴き出していた。
 にわかに黒い雲が、空に根をはる。黒い天に、こうこうと鳴く鳥の声。立ち止まった私の首筋に、ずっとまとわりついていた蚊が吸いついた。背丈の高いすすきのなかにひそんだものが、こちらをうかがっているような気がした。父の亡霊もまた、この野から出られず、さまよったままなのであろうか。しかし随分前に起こったできごと、父の骸もすすき野のどこに埋もれているのかわかりはしない。
 近くなる雨のにおいの方向へ、私は歩みを進めた。

 こぼれ落ちた雨がけたたましく壁を打ちつけ、ところどころの隙間から屋内を濡らしていく。
 自然とできた大きな岩の重なりへ、木で壁や床を作った岩屋は案外頑丈なもので、嵐にさらされても崩れることはなかった。元々は何人(なんぴと)かが暮らしていたのであろうが、いまは生き物の気配すらない、まるで石墓であった。
 その戸を叩く者があった。雨音ではない、人が呼ばわり、戸を叩いている。
「どなたかいらっしゃいませぬか」
 まどろんでいた者を起こすような、はりのある声であった。生き物の気配に驚いた有象無象が、岩屋のなかでざわめき始めた。子どものような老人のような、はたまた男のような女のような、あまたの声が渦をなす。その渦のなかから、一つの小さな影が立ち現れた。短い足が生え、呼ばれるままに戸口に近づくと、うっすら明かりの射す板の隙間に頭の部分を寄せた。影に一筋線が入り、開いて目玉が現われた。
「旅の僧でございます。雨宿りをさせていただけませぬか」
 笠からわらじまで、ぐっしょりと濡れた僧が辺りの様子をうかがっている。飢えたように目玉が僧をよくよく眺めて、現われた手が戸の横杭に伸びて外した。

 物音が聞こえた気がして、私はまぶたを開いた。やはり戸は動いていない。しかし、岩屋をおおっている松の大木の下に、いつの間にか人が立っていた。異常にやせた老婆が、じっとこちらを見つめていた。
 鬼だろうか、夢のなかの老女だろうか。私が黙って老婆を見つめていると、相手はじわりと動き、「お坊さまかえ」 と声を発した。私の正体に安心したのか老婆はこちらへやって来て、無遠慮な視線で私の顔をあおぎながら、岩屋の戸を引いた。
「お入りなされ」
 しわがれた声で言い、老婆は暗い屋内へもぐりこむ。なかをのぞきこむと、腐り始めた木のにおいで、鼻孔の奥がきしんだ。
 笠を脱ぎ、闇のなかへ踏み入った。壁板の間にできた隙間から入るわずかな光が、室内を歩く老婆の輪郭を描く。吹きつける風雨に、私は戸を閉めた。老婆の様子をうかがいながら、板間に腰をおろし、足にはりついたわらじを脱いで笠の隣りへ置く。
 老婆はうす暗い屋内を迷いなくうろついて、板間の真ん中に掘られたいろりに、火を起こし始めた。暗闇で灯る火種が、老婆の手と顔を照らした。
「早うお上がりなされ」
 呆然と火を見つめていた私を、老婆が催促した。
 火のつき始めたいろりの横へ腰を下ろす。しかしまばたきをするたびに、夢のなかの母の姿が浮かび、目前の炎や老婆の姿がゆがんだ。
「冷えたのかい。大したものはないが、いま支度をするでの」
 老婆は細い足首で立って、いそいそと準備をし始めた。私は謝意を述べ、いろりに手をかざす。芯まで冷えたせいなのか、炎の熱は少しもあたたかくなかった。
「迷ったのかえ」
 鍋にひしゃくで水をそそぎながら、老婆が問うた。
「――人を、探しておりまして」
 私は渇いた唇を開き、老婆に話しかけた。老婆は背を丸めて戻って来て、いろりの上へ鍋を吊るす。
「都の橘家で働いていた、岩手という人を知りませんか」
 すると老婆の手が止まり、かわりに目玉が羽虫を追うように宙をさまよった。
「橘……? 環子、さま?」
 老婆がたしかにそう口にした。
「そうです、橘の姫の乳母をなさっていた」
 私の言葉に、老婆の顔色がみるみるうちに輝いていった。
「あな嬉しや、私が姫さまの乳母の岩手じゃ!」
 しわばかりになった笑顔に、私はなぜか懐かしさを覚えていた。

安達ヶ原



 板間に筵(むしろ)を敷いただけの床に横になり、私は母の形見である緋色の守り袋を握って、夢のことを考えていた。
 幼い頃から繰り返し見るあの夢を、はじめは恐ろしく思ったが、いつしか淡々と眺めるようになっていた。母が老女に殺され、父は私をつれて逃げたが途上で息絶え、私は母の形見だけを持って運よく生き延びた。ただの夢でなく、たしかに起こったことなのだと、その守り袋が示している。しかし父母がなんという名で、どこの生まれだったのか、肝心なことは一つもわからなかった。私が知っているのは、都にいるという祖母・岩手の存在と、老女が環子という姫のために、父母を手にかけたということだけ。
 物心ついた私は、都で祖母を探し始めた。すると、おそろしい事実が浮かび上がったのであった。
 環子という姫に仕え、彼女の不治の病を治すため、東国へ旅立った乳母がいた。その乳母の名は岩手。
 いま、奥の間で寝息を立てている老婆が、父母を殺めた老女であり、私の祖母であったのだ。
 いつの間にかまどろんでいた私の耳に、ひたひたと板間にはりつく足音が聞こえてきた。重いまぶたを開けると、目の前に白い肌に白い着物を着た、男の子どもが立っていた。子どもがやわらかい手で私の目をおおったので、その姿は一瞬見えたきりだった。
 子どもに声をかけようとしたとき、奥の間のふすまが開く音がし、思わず口をつぐんだ。子どもの足音とはまったく違う、ひきずるような足音が近づいてきた。それはいろりのそばで立ち止まる。
「ぬう、どこへ行った……」
 私の背筋を悪寒が走った。夢のなかで私に包丁を突きつける、あの声であった。やはり私は殺されるのか、そう思ったが、老婆はすぐそばに横たわっている私が、目に入らないようだった。
 子どもの手が私にふれたまま動かないので、身じろぎせず、息を殺した。
「まあいい、久方ぶりの得物じゃ。ゆっくり殺してやるとしよう」
 呟きながら気配は離れていく。ひとまず安心すると、子どもの手のあたたかさに、再び眠気が襲ってきた。
 遠くなる意識のなかで、私は奇妙な音を聞いた。板を転がすような音がしたあと、しばらくして岩の上をなにかがすべる、耳障りな音が規則的に聞こえ始めた。
 じゃ、じゃっと音を繰り返しては、一息つく。そのうち音にあわせ、しわがれた声が歌を歌い始めた。
「百日百夜は独り寝と……人の夜夫はいなじせうに、欲しからず……宵より夜半まではよけれども、暁鶏鳴けば床さびし……」
 岩屋に老婆の歌う今様(いまよう)と、とがれる刃の音がくぐもり響いた。

 一晩中降り続いた雨は止んだが、分厚い雲が天にふたをして、昼になるとなんとも蒸し暑くなった。
 私は宿の礼だと申し出て、岩屋の古びた壁板を直し始めた。そうして昨夜のできごとを、確かめるつもりであった。朝起きると子どもの姿はどこにもなく、老婆は何事もなかったように起き出して来た。ただの夢だったのかと思ったが、岩屋のなかに響いたあの音があざやかに耳に残っている。しかし板間と奥の間しかない狭い室内では、いくら声をはったとてあのような音にはならない。もっと広く、深い場所から聞こえてくる音だった。
 しかし外から見ても、岩屋になんら変わったところはなかった。そうこうするうちに、老婆が戸口から顔を出し、「そろそろ休まんかね」と声をかけてきた。
 雑草ときのこを粟といっしょに煮た粥を食しながら、老婆は都の話を聞きたがった。
「そうかえ、姫さまが院のお后さまかえ……!」
 ことさら乳子として育てた、環子のことが気になるようだった。
「赤子のときからかわいらしゅうてのう、ほんに身を尽くしてお育てしたかいがあったというものじゃ……」
「お婆さんは、元はどこの生まれなのです? どうして貴族の乳母になったのですか」
 私は老婆に話をあわせてたずねた。
「わたしはの、なにもない山の生まれよ。そんなわたしが姫さまの乳母を任せられたのはなあ、姫さまが生まれつきお体が弱くて、長くは生きられんだろうて見切りをつけられたからなのじゃ。哀れでのう……わたしは姫さまのために、なんでもしてさしあげようと思うたものじゃ」
「なんでも……?」
「そうさ。親ってものはね、子のためなら鬼にも修羅にでもなれるものじゃよ。……ほれ、もっとお上がりなされ」
 箸の止まった私の椀に、老婆は粥をなみなみとよそい、指についた汁をすぼまった口で吸った。
「お婆さんの実の子も、……家族も、都に住んでいたのですか?」
 そう問うと、饒舌だった老婆は「いいや」とだけ答えて、自分の椀に白湯をそそいだ。
「けれど子がいたから、乳母になったのでしょう?」
 重ねて問うと、老婆は唇を結び、黙ってしまった。そのとき、老婆の白髪のそばに、一匹蜘蛛がぶらさがっているのを私は見つけた。しかしよく見るとそれは蜘蛛ではなく、黒い塵のようなものが漂っているのであった。それが反対側にも現われる。
 私は息を飲みこんだ。老婆のまわりに、あまたの塵が漂い、黒い霧のようになっているのだ。私は椀を取り落とし、粥が床に流れていく。それでも老婆は動かず、居眠りするようにうつむいていた。
 気味が悪かったが、私はその霧におそるおそる手を伸ばした。突如、頭のなかに男の怒鳴り声が響く。しかしこの場にいるのは私と老婆の二人だけである。指から腕をつたい、頭のなかに声が入ってきたようであった。そしてそれとともに、私の体からなにか意思が吸い取られていくような感覚がした。霧が生き物のように広がり、次第に私の方へ集まって来る。
「お婆さん――岩手殿!」
 名を呼んでその体にふれたとき、まさに老若男女の激しい叫びが、私のなかに飛びこみ、頭がかち割られそうになった。
 ようやく気づいたのか、老婆が顔をあげた。寝ぼけたように目をしばたたかせる。いつの間にか霧は消え、頭のなかで響いていた声もなくなり、岩屋の静寂がよみがえった。老婆は「おやおやもったいない」 と声をあげ、私がこぼした粥を拭き始めた。
「お婆さんは、なんともないのですか……?」
 私の声はかすれ、震えていた。おまけに体中が冷たく、背を汗がつたって着物を濡らしている。
「どうかしたのかえ? おやおまえさま、ひどい顔色じゃ!」
 老婆は椀を片づけると、いろりのそばへ筵を敷き始めた。
「旅の疲れがたまっとるのじゃろう。ほれ、横になっておいで。わたしは山へ入って来よう。なんぞ精のつくものでも、食べさせねばの」
 私を叱るような口調で言い、老婆はかごを背負った。
「大人しくしておれよ」
 親しみをにじませた笑顔を向けて、老婆は出かけて行った。
 老婆はなにかに取り憑かれている、そう思った。しかしいまは頭がまわらず、答えは見つかりそうにない。私はしばらく目を閉じることにした。

 物音一つしなかったのに、いつの間にやら白い子どもが目の前にしゃがみ、私の顔をのぞきこんでいた。さすがに肝を冷やし、私は思わず声を上げてしまった。子どもは私の素っ頓狂な声に目を丸くし、それから愉快そうに笑った。あまりに人なつこい笑顔に、つられて私もほほ笑んだ。
「おまえは誰なんだい? 昨日は私を助けてくれたようだが……」
 子どもはただにこにことして、私を見つめた。
「ずっとここにいるのかい?」
 子どもは勢いよく頷いた。言葉は知らないようであったが、その不思議な目の輝きに、私は魅せられた。無数の光のなかに、さらに細かい光を含んだような、星空のような瞳であった。
 私は半身を起こし、「それならこの岩屋の秘密を知っているか?」 とたずねた。子どもは逡巡するように、戸惑いの様子を見せた。ひざを抱えて、落ち着かなくなる。私は子どもの細い腕にふれた。
「だいじょうぶ、安心おし」
 綿毛のようにやわらかい髪をなでると、子どもは私を見上げて立ち上がった。真剣な顔つきで、子どもは奥の間を指さした。
 破れた障子からのぞく暗闇のなかで、なにかが呼吸しているようであった。子どもは私の後ろにぴったりとはりついている。
 思いきって障子を開けたが、光の射さぬ室内の様子はなにも見えなかった。子どもとその暗闇をしばらく見つめていると、やっとむきだしの岩壁や、ゆがんだ床板がぼんやりと見えてきた。それは厠ほどの広さしかない、窮屈な部屋だった。あの小さな老婆とて、丸まらなければ横にはなれぬだろう。しかし寝るための筵も、部屋には置かれていない。
 私は子どもをふり返った。不安そうな子どもが、ゆがんだ床板に目を落とした。部屋へ足を入れてみると、床板がきしんで揺れ、その音が波紋のように響く。板の間に指を入れると、狭い部屋の床板がわずかに浮かぶ。両手で板をつかみ持ちあげると、部屋のしたにぽっかりと穴が開いていた。かがんでのぞきこむと、穴は奥の方へ広がりつながっているようで、そこから例えようのない臭いが襲ってきた。天地の感覚を失い、吐き気がこみあげてくる。私は床につばを吐きかけ、むせた。
 臭気はおさまらなかったが、なんとか呼吸を整え、着物の袖で鼻と口をふさぎながら、穴のなかへ素足のまま入った。
 子どもが私の着物をひっぱった。安心させるように頷くと、私を見つめながらも手を離した。私は思いついて、懐を探って母の守り袋を取り出した。そしてそれを子どもの手に握らせる。
 子どもを置いて、私は岩穴のなかへ、ゆっくりともぐりこんだ。天井から落ちる水滴が床に叩きつけられる音が、奥の方からしていた。壁に手をつき、臭気の渦に体をおおわれながら進む。それはもう瘴気と言ってもよかった。
 慎重に十歩ほど奥へ入ったが、水滴の音はまだ遠い。耳と手足の感覚だけで探り進むと、地面に落ちたものを蹴ってしまった。たしかめようと足先を動かすと、からからと貝か石のような音を立てて、なにかが転がる。同じようなものがいくつも転がっていた。それが一体なんなのか、私にはわかるような気がした。そして暗闇に慣れていく目の前に、白い壁が見え始める。
「見えにくくないかね」
 背から声をかけられた。
 洞窟のなかに火が灯り、あまたの人骨が壁のようにうず高く積もる光景が現われた。大きなものに小さなもの、頭骨やあばら骨に、崩れてもはやどこの骨かもわからぬもの。そこへ私の影が揺れ、さらに二回り大きい老婆の影が、壁面に広がっていた。
「精のつくもんを食べるのは、どうやらわたしのようじゃのう」
 片手に油皿を、もう片方に包丁を持った老婆は、夢のなかから立ち現れたようであった。
「これは……あなたがやったのか」
 口を開けば、入りこむ瘴気が胸を焼く。そんななかで、老婆は大口を開けてけたけたと笑った。
「そうよ、皆野山に犬のように捨てられた哀れな者らよ」
「なんのために……」
 骨を蹴り、あとじさりながら私は問う。
「そうよのう……救ってやるためかのう」
 老婆は私ににじり寄りながら、にたりと笑った。
「里でも生きられぬ、この安達ヶ原で死を待つだけの、弱い者らよ。それなら早く楽にしてやるのが情けというものではないかえ? お坊さまよい……」
 老婆が喜色を浮かべながら、また一歩私に近寄る。
「環子のためではなかったのですか?」
 父母の苦悶の表情が強烈に、何度もよみがえった。だのに老婆は、私の言葉を解さぬように首を傾げる。
「姫を助けるために、そのために私の父母を、あなたの娘を殺したのではないのか」
 私は怒りに震えていた。私の声が洞窟内で響き、それが骸骨の一つ一つを震わせた。
「親、じゃと……? 娘じゃと……?」
 老婆の表情が醜くひきつる。
「あなたは乳子を助けるために、実の子を殺したのだ。どうしてそのようなことを!」
 震える骸骨がかたかたと音を立て、笑っていた。
「わたしの子……娘? おお、こ……恋衣や、おお……」
 正気が戻ったのか、老婆は狼狽し始めた。「おおおう」 と泣き叫び、油皿と包丁を投げ捨てて、床にうずくまる。岩のくぼみに油が流れ、その上を炎がたどっていく。
「こんなはずでは! わたしはただ、ただ姫さまを助けたかっただけなのじゃ!」
 油を食いつくした炎が、足下をすくわれるようにふっと消え、私と老婆の姿は闇のなかに消えた。

安達ヶ原



 岩手という女は、安達ヶ原よりさらに北の、山深い里に生まれた。よく働く娘だと評判で、請われて嫁へ行った。しかし夫は大酒飲みで、毎晩犬畜生に対するように岩手に手をあげた。同じ屋根の下にいる姑は、自分から嫁へ矛先が変わったことに安心し、岩手を助けるでもなく、素知らぬ顔をしていた。そんな家でできた子であったが、生まれた娘はかわいかった。岩手にとっては娘が唯一の宝であった。
 しかし夫に新しい女ができ、岩手はあっけなく家を追われた。そのうえ姑に娘を奪われ、すべてを失った岩手はあてもなく西へと向かった。けれどいつか娘を迎えに戻ろうと、そのとき自分が母とわかるよう、一対の守り袋を作り、一つは自分が、もう一つは娘へと持たせた。
 都で運よく貴族の家の下働きに雇われてすぐ、その家に三人目の子が産まれた。体の小さな子で、生まれてすぐに長くは生きられないだろうと告げられた。元気な男の子と女の子がすでにいたので、両親は丁度母の体だった岩手を赤子の乳母に命じ、早々にあきらめてしまったのだった。赤子が姫だったせいもあり、岩手はいっそう哀れになり、精一杯世話をし続けた。
 そのかいあってか姫、環子はすくすくと育ち、美しく成長した。皮肉なことに、健やかだった環子の兄姉は流行り病にかかり、次々とこの世を去っていた。環子はにわかに大事な一人娘となり、周囲の期待を一身に背負うこととなった。ゆくゆくは帝の後宮に入るため、厳しい教育が始まった。しかしその無理が祟ったのか、環子も病に倒れてしまった。原因も治す方法もわからず、姫の母は「犬の乳を飲ませたせいだ」 と岩手にあたりちらして、ついに屋敷から追い出してしまった。
 岩手は姫の身だけが心配で、毎日屋敷の近くへ来て、なかの様子をうかがった。あるとき姫を診ている医者が屋敷から出てきた。岩手が医者を問いつめると、「一つだけ、姫を助ける方法はある。けれど誰にもできないことだ、姫はあきらめるしかない」 とこぼした。それでも岩手がしつこく聞くと、ついに根負けした医者はこう言った。
「とても無理なことだ。なにせ必要なのは赤子の肝、しかもまだ生まれるまえの、母親の腹に入った赤子の肝なのだから。そのようなことが誰にできようか。子は母のためならなんでもできると言うが、あの姫の母君には、無理であろうなあ……」
 さすがに岩手にも、それだけはできないと逡巡した。しかし自分があきらめたら、誰が姫を助けるというのだろう。
 しかし子を宿した女を殺すなど、たやすくできることではなかった。機会を失し、さまよううちに月日は経っていく。ふたたび子を失う恐ろしさに、岩手はむしばまれ、少しずつなにかが壊れていった。ただ娘に会いたい、それだけを願った。
 どのぐらい時が経ったのか、どう至ったのか、岩手は安達ヶ原をさまよっていた。袖をひかれるように、そこにあった岩屋でひっそりと暮らし始めた。
 あるとき、迷った若い夫婦が一晩の宿を頼んできた。女は身重であった。二人は珍しいほどに仲むつまじい夫婦であった。それを見ているうちに、岩手のなかで抱いたことのない、醜い憎しみが湧き出した。永年の眠りから覚めた火山のようなその勢いをおさえることができなかった。
――この女にしよう。
 岩手は姫のためにこの女を殺すことを決意した。そして腹をこわす草を女にだけ与え、さもお産が始まったかのように見せかけた。男を村に走らせ、岩手は女を殺した。ひとたび憎しみに駆られると、ためらいもなにもかも、うそのように消えていった。何者かが、殺せ、恨みを晴らせと、ずっと耳元でささやいているようだった。
 けれど女が懐から守り袋を出したとき、岩手は我に返った。見覚えのある守り袋であった。
 ずっと娘に会いたいと願っていた。その娘がいま目の前で、息をひきとろうとしている。すべてがわからなくなってしまった。戻って来た男を無我夢中で襲ったが男は逃げ、岩手は娘の骸と残された。
 幾晩も骸のまえでじっとしていると、死体に蠅がむらがり始めた。はらってもはらっても、寄ってくる。岩手は娘を守らねばならぬと思った。そしてその肉にかぶりつき、蠅がたからぬよう、かけらも残さぬよう、その体をきれいに食べ尽くした。

 泣き叫びながら、老婆が頭を岩にぶつけているようだった。私は言葉を発せられぬまま、そこへ立ち尽くしていた。
「許しておくれ、許しておくれ!」
 おんおんと泣く声が反響し、まるで幾百、幾千の声が泣いているようであった。
「わたしはなんにもわからなくなってしもうた! そして捨てられ、迷った者を見つけると殺して、また恋衣と同じように食ろうた……。哀れだったんじゃ。望まれず、捨てられ、恐怖を味わい、ゆくゆくは虫にたかられ、朽ちてゆく姿が……」
 老婆の悲痛な叫びが徐々に力を失っていった。
「すまぬ、すまぬ……」
 老婆の声が闇のなかに消えてゆく。私は我に返り、「お婆さん……?」 と声をかけた。しかし返事はなく、私はいま一度「おばばさま」 と暗闇に話しかけた。
 すると闇のなかから、『おう』 という低い声が答えた。
『まさか孫が生きておったとはのう、嬉しやのう、嬉しやのう……』
 男女の声が同時にしているような、恐ろしい声であった。
「誰だ……」
『悲しいことを言わんでおくれ。おまえさまのばばじゃよ。どれ、ようくその顔……見せておくれ!』
 目前にぬっと老婆の顔が現われた。その頭には二本の角が生え、目は飛び出し、口は耳まで裂けて、犬歯が牙のように顎まで伸びていた。
 魚のようにぱっくりと開いた口が、私の肩口へ食いついた。逃れようとするが、老婆が腕をきつく握りしめ、鷹よりも鋭い爪が五本ずつ、着物を破り、皮膚に刺さっている。しかしそれよりも、長く伸びた牙が肩の肉をえぐり、私は悲鳴をあげた。
『おうかわいやのう、孫がわたしを探しに来てくれるとは』
 牙をつき刺したまましゃべり、喉奥で笑った。老婆の体から霧が出始めていた。それが私の体へ乗り移ろうと、四肢までおおってゆく。己が何者であるか、なぜここへ来たのか、すべての記憶が持っていかれるようであった。そうしてできた心の隙間に、他人が争いながら入りこんでくる。怒り、苦しみ、悲しみが怒濤のように流れこんできた。
 老婆は怨霊のかたまりであった。もはや私の祖母、岩手ではない。安達ヶ原の鬼婆であった。
 筋がちぎれ、肉がはがされる音がした。私は髑髏の山に倒れ、積み重なった骨が崩れていく。転がった頭骨からうす青い光がぼんやりと出でて、私の肉を食らう鬼婆の姿を照らした。
『憎いかえ? 恐ろしいかえ? この世は地獄よのう。おまえも一人でさぞつらかったろうて。これからはばばが一緒じゃ、わたしが食ろうてやろうのう』
 鬼婆は今様を口ずさみながら近づいてきた。私の体は釘をさされたように動かない。鬼婆が口から飛びかかって来たとき、体が勝手に動き、鬼婆は髑髏の山に飛びこんだ。ぼうっと白く輝く子どもが、私の腕をつかんでいた。後ろでうなり声を発し、鬼婆が起きあがろうとする。子どもが私の腕をひき、無理矢理立たせた。そして洞窟の外に向かって走り始めた。
『おのれ坊主め……』
 鬼婆の口惜しげな声が岩壁を這う。
 板戸をはじき、私たちは暗雲よどむ枯れ野へ飛び出した。一目散に、転げるように野を駆けた。私の意識はもうろうとしていたが、子どもが手をひくので、走らぬわけにはいかなかった。
 私たちを追って、鬼婆がすぐ岩屋から飛び出してきた。
『待ちゃれ!』
 叫びながら追ってくる鬼婆の足は、老婆の速さではなかった。霧に黒くおおわれた鬼婆は地に飛びつき、手で着地すると、四本足になって駆けてきた。獣のような息づかいが背をなでる。私のこぼした血のにおいをかぎつけ、鬼婆が背後に迫っていた。
 ついに鬼婆が私の袖をとらえ、山犬のように首をふる。私は地面に叩きつけられ、体中がきしんで動かなくなった。
 鬼婆が私の首筋目がけて、牙を剥きだした。しかしそれより一瞬早く、子どもの白い着物が私の目の前をおおった。
 鬼婆の牙に裂かれ、子どもの姿が割られた水面のように揺らいだ。まっぷたつになった像が千々に砕かれ、あたり一面に飛び散った。
 砕かれた一片一片は、光の粒となって、輝きながら宙へ広がる。あまりのまぶしさに目をつむると、まぶたの裏にさらに強い光が広がり、記憶が奔流のように湧き上がった。
 家族のように育った同門や親代わりの住職、そして懐かしい嵐山の風景。春は花咲き乱れ、夏はむせ返るほど緑深くなり、秋は紅く色づいた葉が、橋のかかる河へ降ってゆき、冬は美しい雪が音もなにもかも包みこんでゆく。忘れていた記憶の数々が、あざやかに映し出されてゆく。
 まるで美しい記憶の結晶であった。
 腹のなかにいる私に話しかける母と父の姿が、脳裏に浮かび上がった。
「泣いておくれ――」
 父の声が、耳元ではっきりと聞こえた。
 私は声をあげて泣いた。
『おおおおう!』
 鬼婆の悲痛な叫びが、曇天を突き抜けた。吐き出すように唾液を飛ばし、悶絶して地面を転がり始める。うめき声をあげながら、自ら頭を地に叩きつけている。そのたびに、体中からわっと霧が吹き出し、かたくなって灰になり、はらはらと降り積もってゆく。
『なんじゃ、なんじゃこれは……!』
 鬼婆が宙を舞う光の粒を睨み、口からも霧を吐き出した。
『知らぬぞ、こんなもの! おのれ、おのれえ』
 泣き声をあげる鬼婆のまわりに、降った灰が沼のように広がり始めていた。黒い沼から小さな手や足や顔が現われて、ひとたび出た鬼婆の体へ戻っていこうとする。
 私は体を起こし、沼のなかへ足を入れた。沼が私の足をさらに奥へと、引きこもうとしている。それでも私は沼のなかへ入り、鬼婆の肩をつかんだ。泣き暮れたその体をかつぎ、沼の外へ這い出た。すっかり力を失った鬼婆を背負い、私は走り始めた。
 命尽きた枯れ木のような鬼婆の体を支えて、私は父のように野を走っているのであった。

是諸法空相
不生不滅
不垢不浄
不増不減

 鬼婆をなだめるように、私は読経をしていた。私には今様はわからない。子守歌のように聞いてきた仏の声を、老婆に聞かせていた。

掲諦掲諦
波羅掲諦
波羅僧掲諦
菩提薩婆訶

 一編読経を終えるたびに、鬼婆の牙がとれ、爪がとれ、やがて反り立った角が落ちて、地で砕けた。それでも私は歩き続けた。
 泣き続ける幼子が眠ってしまうまで、それを待つ母親のように、ひたすら読経を続けた。
 そうしているうちに私は子になり、背には弟を背負っていた。そしていつの間にか大きな男になり、老父を背負っている。そして次に私は父の姿になり、背には母を背負っていた。そうして最後は女になり、赤ん坊を背負っていた。
 幾夜も幾夜も渡るうちに、魂は解き放たれ、自由になっていた。私は私に、鬼婆は憔悴しきったただの老婆へと戻っていた。
 深い緑の萌える山道を歩いていると、突然むっとする香りが漂ってきた。見上げると、頭上の大樹から、白い花が燦々と降り注いでいた。
「たどり着きましたよ、おばばさま」
 私が歩みを止めると、老婆がみじろぎして、白濁とした目で頭上を見上げた。
「おお……あな美しや」
 花びらが吹き荒れ、息が止まりそうになった私は両手で顔をおおい、「あっ」 と声をあげた。ふり返ると、老婆の姿は花びらのなかへ消え去っていた。足下にあせた緋色の守り袋が落ちていた。
 懐を探ってみると、子どもに渡したはずの守り袋が、いつの間にか戻っていた。対の守り袋がやっと、一つところに戻って来たのだった。

安達ヶ原



 鳥がさえずり、花開く季節がふたたび来た。
「おっとう」
 大きな声が堂内に飛びこみ、老僧と私はふり返った。
 安達ヶ原から戻った私は、老僧の寺へ身を寄せた。そして還俗(げんぞく)して妻をめとり、一児をさずかった。
「じじとおっとう、なにしてるの」
 そう言ってのぞきこむ瞳は、あのときの子どもによく似た輝きを宿している。
「じじは修行じゃ。おとうと遊んで来い」
 老僧は子の頭をなでて送り出す。
 私は子をかついで、軒先へ出た。山のあちこちに花が咲き、里へ薫ってくる。
「きれいだのう、ほれ。おとうのおとうも、おかあも、おとうのばばさまも、皆大好きだった花じゃ」
 子は花の光をその目に映して、「きれいきれい」 と手を叩いた。