賭射

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文芸サークル・史文庫様発行の歴史小説アンソロジー『すごくあたらしい歴史教科書:日本史C』へ寄稿した作品です。
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 枝に積もった雪が、冷たい吐息に吹かれて宙を舞う。
 青空に銀粉が散りばめられ、馬のたてがみを濡らす。
 馬上には帯剣した狩衣(かりぎぬ)姿の男たちが乗っており、行列の前後を守っている。間には、枇榔毛(びろうげ)のかかった牛車や、荷車などが連なっていた。
 牛車の前簾(すだれ)が持ち上がり、大きな手のひらが差し出された。
 その手にふれるとたちまち、粉雪はとけ、年輪を重ねた手がむなしく空をつかむ。
「帥宮(そちのみや)様、お体が冷えます」
 牛車を引く車副(くるまぞい)の若者が声をかける。
 帥宮と呼ばれた初老の男は、この初々しい従者の忠告に苦笑した。
 髪には白いものが混じり、目のまわりにも細かいしわが寄っている。けれど瞳のなかには、豪放な気性が輝いていた。
「筑紫(つくし)の寒さなど、東国に比べたらかわいいものだ。それより、花は咲いておらぬか」
 従者は思わずさすり合わせていた手を隠しながら、路傍に伸びる梅の枝を見上げた。
 枝の節々に、乙女の唇のようなつぼみがなっている。早朝の雪に驚いたのか、どのつぼみも身を縮めていた。
「今年は遅咲きのようですから」
「遅咲き、か――」
 透き通った青空にぽつりぽつりと浮かぶつぼみに目を細め、男は前簾を下ろした。

 嘉祥三年の一月、帥宮の一行が大宰府(だざいふ)へと入った。
 大宰府は九州と周辺の島々を統轄する、行政機関の名である。筑紫の国に政庁があり、その周辺は京の都と同じように区画整理がなされていた。
 大宰帥(そち)というのは、大宰府の長官のこと。そして天皇の皇子である親王がこの職に就いた場合は、帥宮と呼ばれる。
 牛車の前簾が開き、踏み台として置かれた榻(しじ)に縹(はなだ)の袴がかぶさる。
 桓武(かんむ)天皇の第十二皇子、葛井(ふじい)親王であった。
 齢は五十一になるが、若い頃は文武両道の精悍な皇子で、その面影が今も残っている。身の丈も六尺近くあり、白地の直衣(のうし)に浅黄の衵(あこめ)を出し衣とした姿がよく似合っていた。
 陽が傾き始めた頃、官人や土地の長らが、帥宮を迎える宴へと集まった。冷気が入らぬよう蔀戸(しとみど)を閉じ、その内側で楽を奏で、海の幸山の幸の馳走がふるまわれる。
 遠慮がちな話し声や、食器のふれあう音が屋内に響いている。多くの人が、親王の前でどのように振る舞ったらいいのか、考えしな一挙一動しているらしかった。特に土地の者などは神にでも出会ったように恐縮し、せっかくの馳走の味もわからずにいる。
「おひとつどうぞ」
 うら若い女房が、親王の杯に酒をそそぐ。
 この女房にもまた、新しい主人への敬愛と戸惑いの色が浮かんでいた。
 親王は透き通った酒の色を眺めてから、ゆっくりと味わってこれを飲み干した。気持ちのいい飲みっぷりに、思わず周囲から歓声があがる。
「お強いのですね」
 女房の曇りない瞳が輝いた。
 親王は「うむ、美味であるな」と破顔する。その表情には、どこか少年のような無邪気さがあり、張りのある低い声が快活に弾んだ。
 部屋に張り詰めていた見えない糸がゆるりとほころんだ。
 列席者の好奇の目が親王に集まるなか、再び注がれた酒を、喉を鳴らして、あっという間に干してしまう。すると先ほどよりも一段と大きな歓声があがった。
 親王の気さくな様子を見ている内に、人々は次第に打ちとけ、声をたてて笑い始めた。
「帥宮様は征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)様のお血を引いておられるとか。さすがの豪傑でいらっしゃいますな」
 祖父の名が話題にのぼると、親王は機嫌よく耳を傾けた。
 坂上田村麻呂は桓武天皇から嵯峨(さが)天皇の代に仕えた武官で、その勇名は今も人々の心に残っている。田村麻呂の娘の春子が、桓武天皇の寵を受けて産んだのが、葛井親王である。
「帥宮様、後ろの大太刀は、もしやお祖父様の――?」
 屏風の前へ、黒塗りの立派な大太刀が飾られている。
「ああ、これはまさに祖父が東国へ向かう際に帯びていたものだ。しかし祖父が討ったのはな、蝦夷(えみし)だけではない――」
 厳格に咳払いして見せると、人々はしんとなって親王の言葉を待った。
「東国の山中には鬼が住み、これが里の者たちを脅かしていたという。祖父はその鬼たちを退治しながら、進軍して行ったのだ」
 祖父の物語は、親王の得手である。その緩急をつけた語り口に、一同は泣き笑いして魅了された。
 そして夜が訪れると、人々は名残惜しさを感じながら、帥宮邸を後にした。

 静けさの戻った邸内で、親王は一人簀子(すのこ)へ出て、ゆるりと酒を口にしていた。
 火桶に網を乗せ、その上で酒をあたためては、手酌して飲んでいる。そうして杯を手にしながら、盛んに燃える庭火に照らされた、庭の風情などを眺めていた。
 かたわらには祖父の大太刀を、友のように置いている。
 唐風の彫刻が施された邸から、檜の香りが漂っていた。檜と火桶の炭の匂い、その他は雪でそっとふたをされている。
 体はぬるい湯につかったようにあたたかいが、胸の内に小さな穴が開き、すきま風が入りこむ。後悔ともむなしさともつかぬものが、胸の奥にじわりと広がっていた。
 慣れない感傷にため息をついたとき、ふっと庭火が消えた。
 強風が吹いたわけでも、燃え尽きてしまったわけでもない。誰かが手のひらで押し包んだように、唐突に火は消えた。
 流れた雲が月を隠し、暗闇が忍んでくる。そのなかで親王の目だけが、白く光っていた。
 もう一対、闇のなかに目玉がある。
 親王はくだけた姿勢はそのままで、肌でその気配を感じ取った。
 邸の者の気配ではない。獲物を狙う獣の気配に似ていた。ちょうど階(きざはし)の隅の庭火の辺りから、何者かがこちらをうかがっている。
 再び庭に月明かりがこぼれ始めたとき、鋭い殺気が走った。
 一対の目玉の獣が、親王へ向かって爪牙を露わに迫る。
 いつの間にか、親王の手のなかに大太刀が握られていた。左の親指がその鍔(つば)を弾き、目にもとまらぬ素早さで、長い刀身を抜く。刀身へ月明かりが反射し、露をたたえるように輝いた。
 大太刀が庭火を真っ二つに断ち、木片が音をたてて地面へ落ちる。しかし手応えがない。
「さすがのお手前。まずは満足――」
 左手から男の声がした。月光が、簀子へ降り立った男の足下を照らす。
 そこへ立っていたのは、獣ではなく、一人の偉丈夫であった。
 大柄な親王が偉丈夫と認めるほどであるから、男の身の丈は七尺近い。肩幅は簀子いっぱいほどあり、分厚い胸板が狩衣を内側から押し上げている。
 肝心の顔はちょうど屋根の陰になって見えないが、声の調子は、親王と同じ年頃かと思われた。
 しかし五十の大男が、庭から簀子へ、音もなく移動できるはずはない。
 まず、人ではなかろうと思われた。
 男は大太刀が届くか届かないかという、適度な間合いのところに立っている。先ほどの殺気の鋭さからしても、並々ならぬ武芸を身につけているらしい。
 男は長い両腕を無防備に垂らしていた。なにも得物は持たず、丸腰である。
「何者だ――」
 親王の声から、穏やかな響きが消えていた。内に眠っていた獅子が、頭をもたげている。
 あれほど酒を飲んだというのに、酔いの色はどこにもない。焦点のしっかり合った眼が、男の様子をつぶさに観察した。
 紋の入った狩衣姿で、たくましいすねには具足を巻きつけている。この上に鎧など身につければ、一廉(ひとかど)の大将になりそうであった。
「某(それがし)は皇家の鬼にございます」
 鬼がおごそかに名乗った。
「皇家の鬼だと――? それは穏やかではないな」
 親王は大太刀を突きつけながら、整ったひげを撫でた。
「して、その鬼がどうして私の前へ現れた」
「実は葛井親王様にお願いしたきことがあり、御前へ参りました」
 鬼の言葉は丁寧で、物腰もその熊のような体躯からは想像できないほどやわらかい。
「ほう、この老いた親王に用があると申すか」
「貴方様にしかお頼みできないことでございます」
 夜のしじまのように、意味深に鬼は繰り返した。
 親王は「ふむ」と鼻奥でうなる。
「鬼の頼みとあらば、坂上の血を引く私が聞くのが筋であろうな」
 親王は白い歯を見せた。少年のような底抜けに明るい笑顔である。
 鬼の目が一瞬見開かれ、そして大きな口から笑い声が漏れた。
「お願いというのは他でもございません。ひとつ、某と勝負をして頂きたいのです」
「なに、勝負だと――?」
 なにを要求されるかと構えていた親王は、思わぬことに頓狂な声をあげた。
「はい。親王様は優れた管絃の才、弓馬の才をお持ちであると聞き及んでおります。また先ほどのご様子などをうかがえば、酒にも大層お強くていらっしゃる――」
 相手が鬼とはいえ、このように褒められれば悪い気はしない。
「実は某も武術の心得があり、管絃の音も好みます。酒を飲んでつぶれたことは、一度もございませぬ。ゆえに、親王様とどちらが上か、腕比べをしたいのでございます」
「なるほど――」
 どうやらこの鬼に、よい敵と認められたらしい。
「勝負するは良いが、勝ったら何とする。私を食ってしまうつもりか?」
「某が勝ちましたら、今某の鼻先まで伸びている、この大太刀を頂きましょう」
「なに、これか――」
 もう四十年近く、常に身につけてきた大切な祖父の形見。親王にとっては、守り神のようなものである。それを鬼にやるというのは、あまりに高い代償だ。
 しかし親王は間を置かず心を決め、「いいだろう」とあっけなく答えた。
「その代わり、私が勝ったら、毎晩酒の相手をしてもらおうか」
 相手を侮っているわけではない。その証に、親王の目のなかには闘志の火が宿っている。
「皆すぐつぶれてしまうのでな。杯を交わす友がなくてつまらんのだ」
 鬼は「承知しました」と頷いた。

 鬼が拳を開くと、消えてしまった庭火が一斉に燃えだした。
 赤い光が二人を照らす。驚いて鬼の顔を見たが、その顔は暗闇にとけたようにぼんやりとしていた。衣の紋などははっきり見えるのに、実に奇妙なことである。
「まずは管絃の腕比べをいたしましょう」
 鬼は親王の隣りに腰を下ろし、あぐらをかいた。そして「野守(のもり)」と、親王の背中の方へ声をかけた。
 いつの間にか、そばに一人の少年が跪いていた。髪を後ろで結んだ、使用人風の少年である。
「某の部下でございます。野守、灯りを」
「はい」
 野守と呼ばれた少年は手燭を持ってきて、親王と鬼との間へ置いた。
 そして親王のあぐらの上に、七弦の琴(きん)を差し出した。それは親王が日々愛用している琴に違いない。
 ずいぶんと用意がいいことだと思いながらも、長い袖の端を押さえるように、琴を手元に寄せた。
 手燭の上で揺れる火が、手元を照らす。
「お前は琴ではないのか」
 野守が鬼へ渡したのは、一対の笏拍子(しゃくびょうし)だった。笏を二つに割ったような形で、左右を叩いて鳴り合わせる。
「某は琴は弾けませぬ。ですが鼓(つつみ)などは得意とするところにて、これで十分でございます」
 鬼は軽く笏拍子を叩いてみせた。
 親王は呆れて、「琴と笏拍子で、どのように勝負をつける」とたずねた。
 琴は七本の弦を操り、自在に音を奏でられるが、笏拍子はただ拍を取るだけである。
「親王様のお好きな曲をお弾き下さい。したらば某が、それに合わせて叩きまする。少しでも調子を外したら某の負け。親王様がお間違いになったら、親王様の負けということでいかがでしょう」
「ほう、それは聞いたことのない腕比べだな。よし、一つやってみよう」
 果たして勝負になるものか。
 親王は心のなかでおもしろい、と呟きながら、弦の上へ大きな手をかぶせた。
 無骨な指に形の良い爪がついている。その指先が、弦を強くはじいた。
 低い一音が宵にしみていく。続けて、段を上がるように音が連なった。
 力強くあでやかな音色がかき鳴らされ、あおられたように、庭火の炎が音をたてて燃え上がる。
 管弦の手ほどきは、皇族なら誰もが幼い頃より受けている。それに加え、親王には持って生まれた才があるようだった。拍の正確さや緩急のつけ方などが実に巧みで、聴く者の心を惹きつける。
 岩山を駆け上がる鹿のような、躍動的な美しさが、親王の音色にはあった。
 親王の指が第一の音節を奏でたあと、鬼が最初の一拍を打ち合わせた。
 これまた大宰府の隅々まで届くような、歯切れのよい音であった。
 続いて琴の奏でる音階に合わせ、今度は小鳥のさえずりの如く、立て続けに叩く。
 それが親王のつま弾く音の粒と、ぴったり一致していた。
 親王は心中で感心しながら、ゆったりと次節に移っていく。すると鬼も拍子を変えて、琴の音の合間を縫った。
 琴のうたう歌を押し上げていくように、的確な律動が刻まれる。曲調の変化に合わせ、時に竹を割るように、時に焚き火のささやきのように、拍の調子が変化した。
 笏拍子一つで表しているとはとても思えない、自在な音色である。
 琴の音は益々加速した。弦の上をしなやかに移り、きめ細かく、また大胆に音をつむいでいく。
 二つの楽器から怒濤の勢いで現れる音が、筑紫野へと、みるみる内に広がっていった。
 親王の肌に汗が浮かんでいた。体の内が燃え上がり、その熱が弦から発せられて、大気の温度を上昇させていく。
 もはや生命の鼓動同士の共鳴と言ってもいい。我を忘れるほどに、心地の良い合奏だった。
 弦が波のようにたわみ、笏拍子は割れんばかりに、したたかに叩かれ、最後の一音が放たれた。風が起こり、雲が激しく流れ、満月が地上を照らした。
 恍惚として、親王は目を細める。
 音が波紋となって、空気を揺らしていた。
「さすが、お見事でございました――」
 熱の籠もった声で鬼が言葉を発する。
 彼の方を見れば、手に持った笏拍子の片方にひびが入っていた。
 笏拍子が割れるなど聞いたこともない。しかし鬼の鼓は、笏拍子という単純な楽器の能力を超えたものであった。それゆえ最後の一音に、ついに耐えられなかったらしい。
 一方で親王の心臓も、どっどっと重い音をたてていた。もしかしたら琴の弦の方が、あと少しで切れていたかもしれない。
「某の負けにございますな」
 鬼はどこか満足そうに、負けを認めた。

 野守が毛色の美しい、二頭の駿馬を引き連れて来た。
「では次は狩りで、武芸の腕比べをいたしましょう」
「このような夜に、一体何を狩る」
「猪でございます」
 親王はいぶかしみながら、山の影を見た。
「ご心配無用。さあ、参りましょう」
 弓を背負うと、鬼は馬に跨がった。
 邸を出た二頭の馬は、軽やかな足取りで、大宰府の北になだらかにそびえる四王寺山へと向かう。
 四王寺山とは、大城山(おおきやま)を中心に、岩屋山、水瓶山、大原山が囲む山脈の総称である。かつては西の海からの外敵を警戒し、大城山へ大野城という山城が築かれたが、今は四天王を祀った四王寺が建立されている。
 女流歌人として有名な大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、大宰府の暮らしを思い返して、次のような歌を詠んだ。
――今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴き響(とよ)むらむ 我なけれども
 もっとも今の季節は獣も静まり、四王寺山は薄い雪に包まれている。
 小楢(こなら)などが広い間隔をあけて自生しており、月光が木々の長い影を地に描いた。
 先行く鬼は山深くまでは入らず、林の間を悠々と散歩する。
「よい夜だな」
 凛として冷えた空気が、火照った体に心地よい。
 はらはらと木から落ちる雪の粉が、月の光を受けてきらめく様は幻想的である。
「宵の散歩はいいものですが、初春が一等ようございますな」
 鬼の言葉に、思わず頷いた。
 夜は人の心を縛らない。それに加え初春の頃は、張りつめた空気のなかに、新しい生命の気配がにじんでいる。
 そのとき、少し離れたところで、かすかな葉擦れの音がした。
 生き物たちの寝息も聞こえぬしじまのなかで、異質な、熱い息吹の気配であった。
 蹄が土を踏みしめ、枯れ葉が沈む。親王はその音の重さと間隔に、注意深く耳をそばだてた。まぶたの裏に、大きな雄猪の姿が浮かび上がる。
 鬼もすでに気づいているようで、呼吸を乱さず、猪のたてる物音に耳を澄ませている。馬の尾が左右に揺れた。
 草むらが大きな音をたてて動く。
「はっ」
 先に馬を駆りたてたのは、鬼の方であった。
 猪が草むらのなかを駆けていく。親王も馬首を返して、これを追いかけた。
 猪が小楢の木立のなかへ現れ出た。
 荒々しい毛並みが豊かになびき、巨躯(きょく)をおおっている。たくましい筋肉が体を軽やかに動かし、小さな瞳孔が、親王たちを一瞥した。
 親王の肌が泡だち、口角が上がる。滅多に出会うことのできない、王者の獣である。
「やっ」
 親王の馬が、鬼を抜いて前へ出る。
 月明かりのなかを、美しい獣の影が躍る。駿馬が徐々にその影へと近づいて行った。
 背負った筒から矢を一本抜き、馬上にて構える。
 両腿でしっかりと馬の背をつかみ、腹をすねで撫でて操った。
 親王の丹田が落ち着き、弓が美しい弧を描く。
 すでに親王の瞳は、猪をまっすぐに射ている。
 ひゅっという呼吸とともに、強弓がうねった。
 放たれた矢が、重なりあった枝のわずかな隙間を、縫うように突き抜けた。
 猪の姿が、矢の向かう先へ現れ出る。
 そのとき、一本の小楢の樹上から、雪が滑り落ちた。下の枝を揺らし、引っかかっていた雪が、そのまた下へ落ちていく。
 猪の鼻先へ、雪のかたまりが降ってきた。猪は一瞬身をかがめ、次の瞬間、地を強く蹴った。
 猪の尾をかすめた強矢が、むなしく空を切った。
 舌を打った親王の前へ、鬼の馬が躍り出る。
 力強い走りだった。人馬一体、まさしく一個の獣となって、猪にねばり強く近づいていく。
 圧倒的な存在感に圧されたのか、猪が動揺するように鼻を鳴らした。
 鬼は猪の背後につけつつ、凹凸の激しい斜面を、速度をゆるめずに走る。
 鬼の手が手綱から離れていた。激しい揺れをものともせず、しなやかに弓を引きしぼる。
 猪が横たわった倒木を飛び越えようとした。それを追いかけ、馬も地面を蹴り上げる。
 両者が中空に浮かんだとき、鬼は矢を放った。
 矢が空間を切り裂く音がする。そして吸いこまれるように、猪の尻へと突き刺さった。
 猪は悲鳴をあげて、雪面に倒れこんだ。着地した馬が、暴れる猪のまわりで足踏みをする。
 まさに神業であった。
「今度は某の勝ちにございますな」
 あっけにとられる親王に、鬼は声高らかに告げた。

 息を軽く弾ませながら、二頭が帥宮邸の門をくぐった。
 簀子には、すでに酒の支度が整えられている。
「管絃の腕比べでは親王様が、そして弓馬の腕比べでは某が勝ちました。最後は飲み比べで、勝負をつけるといたしましょう」
「よかろう」
 二人は酒の入った大きな甕の左右へ、腰を下ろした。
 この勝負に負ければ、大切な太刀を取られてしまう。
 負けるわけにはいかない。しかし、負けてもよいかもしれぬと、親王は思い始めていた。
 笏拍子にしても、弓馬を操る腕にしても、これまで出会ったことがないほど、素晴らしいものだった。これほどの者ならば、たとえ鬼だろうが、天下一品の太刀を取られても悔しくはない。
 二人が漆塗りの杯を持つと、少年が甕にたっぷり入った酒を柄杓(ひしゃく)ですくい、注いだ。
「では――」
 親王と鬼は目礼をし、一息に杯をあける。
「おお、よい味だ。険山のように爽やかで気高い」
 澄んだ口当たりの酒で、喉に通すと、凝り固まった意識がほぐれていく。
 杯を重ねながら、鬼の飲みっぷりを眺めた。相変わらず、その顔は暗闇と混じって、はっきりとしない。
 ふと、見えないのではなく、思い出せないのかもしれないと思った。
「お疲れになってはいらっしゃいませぬか」
 杯に口をつけながら、ぼうっとする親王に、鬼が声をかけた。
「なにほどか、と言いたいところだが、やはり私も年をとったようだ」
 親王は寂しげな表情を浮かべた。体力も気力も、未だ体の内に満ちている。しかし大宰の土地を踏みしめたとき、都の遠さが胸に迫った。
「よき年のとり方をされたと存じます」
 鬼の太い声が、耳奥を揺さぶった。
 うすら寒かった胸の穴に、熱い拳を突き入れられたような感覚がした。
「お前は一体何者なのだ――」
 こちらを向いた鬼の唇が、ゆるやかに弧を描いている。その口元に、覚えがあるような気がした。
 酔いとともに脳裏からじわりと、白い光が広がる。その光の奥から、古く懐かしい記憶が、豊かな梅の香りとともにあふれ出した。

 あれは十二歳の正月のこと――。
 諸親王や臣下が集まり、天皇の前で弓の腕を競う、射礼(じゃらい)が催された。
 十二番目の皇子である葛井親王は端の方で、特に注目もされずに座っていたのだが、異母兄である嵯峨天皇が、「そちは武門である坂上の皇子じゃ。ひとつ射てみよ」と声をかけ、思いがけず弓をとることになった。
 人々が注目するなか、親王はしなやかに弓を引きしぼり、見事的の中央を射た。
 すると天皇はおもしろがって、「もひとつ射てみよ」と命じ、あわせて五本の矢を射させた。そのどれもが的の中央へと、まるで吸いこまれるように突き刺さったのだ。
 大きな歓声をあげる群臣のなかで、一人の大男が立ち上がった。親王の外祖父である坂上田村麻呂である。
 田村麻呂は列から飛び出して来ると、親王を軽々と抱き上げた。
「あいやお見事! この田村麻呂は、かつて朝廷のご威光を頼りに、東夷征討を成しえました。しかれど、親王様のご才能には、某は到底及びませぬ」
 野太い朗らかな声で人々に告げ、そして親王を担いだまま、そこでひと差し舞い踊った。
 目尻を下げた猛将の舞に、人々は苦笑しながら、合いの手を入れた。

 あの瞬間の天へ昇ったかのような眺めと、祖父の声が、あざやかによみがえる。
 胸の奥に熱い火が灯っていた。それに対して冷たい外気に、親王は思い出したように身震いをした。
「私も老いたのだな。しかし、悪くない――」
 親王は杯をあけて、酒の入った呼気を大気に漏らした。
「さあ、飲み比べはまだまだこれからよ。野守、柄杓を貸してくれ」
 親王は自ら柄杓を持ち、鬼の杯へあふれんばかりに酒を注いだ。
 鬼は杯を両手で捧げ持ってから、これを飲んだ。浮き出た喉仏が上下に動く。
「このような美味な酒は、まこと初めてでございます」
 鬼は満足そうに、熱い息を吐き出した。
 親王はなにを大げさに、と笑った。そのとき、いつか感じたものと同じ、気恥ずかしさと喜びが心の内をよぎった。
「それはお前、褒めすぎというものだ」
 親王の言葉に、鬼は「お」と小さく声を上げた。
「そういえば帝にも、同じことを言われましたな。しかし決して大げさは申しておりませぬ。やはり貴方様は、某よりずっとよい男におなりになった――」
 鬼は、まるで屈託ない少年のような顔で笑った。
「お祖父様――」
 親王がそう声をかけようとしたとき、ざあっと音を立て、一陣の風が邸へ吹きこんできた。屋根や庭木の上に横たわっていた雪がさらわれる。親王は思わず袖で顔を覆い、つむじ風の去るのを待った。
 辺りに静寂が戻った頃、親王は顔を上げた。
 鬼と野守の姿は忽然と消え、親王一人が庭先へ取り残されていた。
 驚いて立ち上がり、静まりかえった邸内を見回す。
 大太刀で切ったはずの庭火が、何事もなかったかのように、ゆるやかに燃えている。極上の酒が入った甕も、野守の持ってきた手燭も見当たらない。
 まるで親王一人が、夢を見ていたかのようだった。
 ふと視界の隅に、映りこむものがあった。
 丁度鬼の座っていたところに、濡れた杯が置いてあるのだ。そしてその前へ、いつの間にか祖父の大太刀が横たわっている。
 親王は大太刀を握り、やっと合点がいったのか、安堵の微笑を浮かべた。
 大太刀を杯の前へ置いて、火鉢であたためていた酒を、二つの杯に注ぐ。
 するとその小さな泉に、一片の梅の花が舞いおりた。

〈了〉