天を衝く



 生臭い熱風が窓から吹きこみ、城内に溜まる冷気と混ざりあった。
 腐臭に似たそのにおいが鼻をかすめて、青年は顔をしかめた。
 目立つ顔立ちではないが、瞳には深淵な知性が宿り、頭から足まで、たおやかな一本の糸が通っているような、凛とした雰囲気がある。
 その瞳がさまよい、窓外の景色をとらえた。窓から見えるのは、冀州(きしゅう)・鄴(ぎょう)の城の背にあたる東側の景色であった。広い湖が横たわり、何艘かの釣り船が、湖面に線を描いている。湖の周囲には水田が造られ、青々と成長した稲が風に揺れていた。
 あと幾月か経てば、稲穂には重い実がなり、景色は黄金に変わるだろう。
 青年は大地を抱くように、大きく腕を広げた。
 ――この恵みが、なぜ天下の人々へ届かぬのか。
 国力は衰え、人民は飢え、略奪が連鎖している。今の世を、人は乱世と呼ぶ。
 四百年の歴史をつむいできた漢帝国の権力は地に落ち、皇帝のまわりへ集まるのは、忠実な臣ではなく、死のにおいをかぎつけた狼ばかりである。
 大地に渦巻く人の業が、煙のように立ちのぼる。空にわだかまった煙が、次第に獰猛な巨獣の姿を現し始めた。
 巨獣は地上を睥睨し、相争う人間たちを愉快そうに見下ろしている。
 青年は巨獣の太い首をひねらんとして、空へ腕を突き伸ばした。するとたちまち巨獣の姿はかき消え、不気味な哄笑だけがあとへ残った。

天を衝く



 青年といっても、もう齢は二十九になる。
 姓を荀(じゅん)、名を彧(いく)という。ここ冀州から西、穎川(えいせん)の地の生まれだ。穎川の荀家といえば、優秀な政治家を何人も輩出している名家である。
 荀彧も二十七歳のとき、推挙されて国の官吏となった。しかし間を置かず時の皇帝・霊帝(れいてい)が薨去し、都は動乱の渦に巻きこまれた。荀彧は官職を捨てて、命からがら都を脱出した。
 一時郷里へ戻った荀彧だったが、彼の評判を聞きつけた冀州の州牧(しゅうぼく)に招かれて、数日前にここ鄴の街へとやって来た。
 冀州は豊かな土地である。ここに腰を据えれば、明日の見えない世とはいえ、しばらくは安定した暮らしができるだろう。しかし荀彧の内には、果たしてそれでよいのかという厳しい自問があった。
 州牧の執務室を訪ねると、近衛兵が部屋の内へ声をかけた。
「荀彧殿がお見えになりました」
 すると中から、「おう」という朗らかな声が返ってきた。
 荀彧が重厚な造りの部屋へ足を踏み入れると、紙や竹簡の書類が積まれた机の向こうから、男が顔を上げた。
「やあ、荀彧先生」
 ひげをたくわえた男が、親しげに荀彧の名を呼んだ。州牧の袁紹(えんしょう)である。年は四十前。彫りの深い顔立ちは、一見近づきがたい印象を与えるが、破顔すると若々しい青年のような魅力的な顔になる。
「お取りこみ中でしたか」
 荀彧が頭を下げると、袁紹は走らせていた筆をやっと置いた。
「まだ州牧に就いたばかりだからな。やることがたまっているのだ」
 袁紹が竹簡を指で打つ。荀彧がのぞいてみると、過去の税収の記録のようだった。
「そのような仕事も、自らなさっておいでなのですか」
「州政も国政も乱れている。新たな基礎を作らねばならんのだ」
 袁紹は椅子から伸び上がった。
「十常侍(じゅうじょうじ)の悪しき政治により、我らの漢帝国は汚されてしまった。私は立ち上がりこれを除いたが、今度は辺境の一将軍であった董卓(とうたく)が、皇帝の権威を笠に着て暴虐を働いている」
 袁紹は窓から、都の方角を睨みつけた。
 十常侍とは、霊帝の元で権力を握っていた十人の宦官(かんがん)のことである。
 宦官とは去勢をした男性の官吏で、皇帝の私的空間である後宮にも立ち入ることを許された唯一の臣下であった。帝や皇后にとって一番身近な臣なのだが、宦官はしばしばその立場を利用して、帝の心を操り政治を乱すことがあった。
 これを憂いた袁紹は国中に呼びかけ、自ら宮廷に乗りこんで宦官を征討した。
 その志は立派なものであったが、それがさらなる乱を呼んでしまった。袁紹の呼びかけに応じて、地方から参上していた将軍の一人・董卓が、都の混乱に乗じて、権力を掌握したのだ。
 董卓は十常侍とは違う。彼の持つ軍事力は強大であり、下手に手を出すことができなかった。袁紹は董卓に反抗の意思を示し、ここ冀州に拠点を移して、彼に対抗するための力を蓄えている。
「枝葉を切り落としても、腐った根元を抜かなければ意味はない。乱の原因は、この天下の形だ。誰かが形を変えなければいけない」
 分厚い手が窓の縁を叩いた。袁紹の内にたぎる熱が表出する。
 ――危うい。
 荀彧は心中で呟いた。袁紹の言うことは間違っていない。しかし正論ゆえに危ういのだ。正論を受け入れられるほどの余裕が、今の天下にはない。
 それに袁紹はあまりに熱血漢すぎると、荀彧は感じていた。大事を成そうとするならば、情熱とそれを上回る繊細さが必要であろう。袁紹は器用だが、繊細ではない。
「なあ荀彧、私の道を支えてくれないか。私はこの空に、新たな太陽を輝かせる。それには“王佐の才”といわれた君の才能が必要なのだ」
 袁紹は荀彧の手を握り、力強く言った。やけどしそうなほど熱い手だった。
「私には天を操るようなことはできません。太陽は自ら輝くもの。それを見失ってしまうのは、人の目です。袁紹殿、あなたはどうか太陽を見失わないで下さい」
 荀彧は穏やかに言い、そっと手を振りほどいた。
 ――この男の理想について行ける者は、おそらくいないであろう。
 荀彧は沈鬱な表情を袖で隠すように頭を下げ、袁紹の前を辞した。

天を衝く



 ふたたび荀彧は荒野へ帰った。
 火であぶったような熱い砂の粒が、風に巻き上げられて外套にぶつかる。たじろぐ馬のかたいたてがみを、荀彧はなだめるように撫でた。
 乾いた空を燕が飛んでいく。上空では雲が強い風に吹かれ、ごうごうと音を立てて流れている。燕はその渦のような大気のなかを、うまく風をつかんで飛んでいた。
 燕でさえ己の行く先を知っているというのに、自分は一体どこへ行こうとしているのだろう。
 むなしさといらだちが荀彧の胸を襲った。
 以前ある評者が、荀彧の英知をたたえて「君には王を助ける才、王佐の才がある」と言った。識眼ある人物から高い評価を受ければ、周囲からは一目置かれ、出世にも影響する。実際この噂を聞きつけて、荀彧を自分の配下に加えようと声をかけてくる者もいた。
 しかし当の荀彧は、あまりこの言葉を喜ばなかった。今はむしろ、呪いのように感じている。
 王とは一体誰のことなのか。皇帝か、あるいは破綻したこの国を復興させる人物か。それとも国に引導を渡し、新しい国の頂きに立つ者なのか――。
 突風が砂嵐を起こし、馬上の荀彧を包んだ。
「王よ!」
 荀彧は天をあおいで吠えた。
「どこにいるのだ。あなたを必要とする、この天下へ出て来い。早く、私の前へ――」
 全身を砂が洗い、口のなかへも入りこむ。それでも荀彧は、あらん限りの声で叫んだ。
 荀彧の悲痛な声に応える者は、どこにもなかった。涙をにじませ開いた瞳に、まっすぐ空を飛ぶ燕の影が映った。

天を衝く



 肉屋にお茶売り、馬商人や遠国から来た行商人。兗州東郡(えんしゅうとうぐん)の街・濮陽(ぼくよう)の市は、多くの人でにぎわい、活気に満ちていた。
「兄さん、もう宿は決まったのかい」
「そんな靴で旅をしてちゃいけないよ坊ちゃん、うちの靴を見て行かんか」
 方々からかけられる声に、荀彧は苦笑する。麻の衣に編み笠をかぶり、少ない荷物を長い一本の竿に吊して背負う旅装姿の青年を、様々な店の売り子が引き留める。
 兗州は、冀州のすぐ南に位置する州である。行くあてのない荀彧は、燕を道しるべに荒野を渡り、濮陽へたどり着いていた。
「濮陽か。たしかこのあたりは、黒山賊(こくざんぞく)が盛んだと聞いていたが――」
 黒山賊とは、国政に虐げられた民が中心となり、結成された反乱勢力だ。
 重税などにより暮らしのままならなくなった人々は、武器を取り略奪を働き、村や街を占拠した。賊というと小規模に感じるが、その総数はおよそ十万人とも言われている。彼らは家族や村ごとこの集団に加わり、そのなかで生活を営んでいる。そして生まれた子どもたちは、やがて生粋の黒山賊の戦士へ育つ。
 このような反乱勢力は昨日今日現れたものではない。ここ何十年にも渡り、国のあちこちで生まれ、徐々に力をつけ、勢力を広げて闘争を続けているのだ。
 彼らと戦うのは、袁紹や董卓など漢帝国の将軍たちである。しかし倒しても倒しても、乱はおさまらない。戦い疲弊した彼らの心は次第に「国政をどうにかしなければいけない」という方向へと向いていった。
 しかしその思いにも様々なものがあり、乱に乗じて立身しようという者、保身を第一として国命に従わぬ者など。ついには己の利権のために、将軍同士で争い始める有様であった。
 天下が疑心暗鬼で満ちている。
 しかし濮陽の街は明るく、黒山賊に怯えているような窒塞した空気はない。
 黒山賊の鎮圧には、おもに東郡太守の王肱(おうこう)があたり、援軍として奮武(ふんぶ)将軍・曹操(そうそう)という男が駐留している。曹操は袁紹の友人で、ともに十常侍排除、反董卓の闘争のなかで活躍した男である。
 東郡が守られているのは、王肱というより曹操の功績が高いのではなかろうかと、荀彧は考えた。
 つい考えごとにふける癖があるが、ところ狭しと並ぶ露店を眺めて歩いている内、ふさがった心も自然に晴れていく気がした。
 荀彧は元来、こうした街の喧騒が好きである。人の顔、声、行動、一つも同じものはない。人が行き交い、あらゆる営みがむき出しに迫ってくる。そうした喧噪に身をひたしていると、次第に森羅万象の中心にいるような心地がしてくるのだった。
 すれ違う人の顔を眺めながら歩いていると、ふといい香りが鼻孔をくすぐり、荀彧は大通りの脇の小路をのぞいた。一件の饅頭屋の前に、ちょっとした人だかりができている。
 年のいった売り子の女が店先で饅頭を蒸し、湯気の立つそれを客に売っている。狭い店のなかでは、二人の男がせっせと饅頭を作っていた。
 手前の、おそらく店の主人であろう男は、左手に饅頭の皮を広げ、木べらですくった餡をその上に載せると、器用に丸めて形を作った。
 その奥にいる男は包丁を握り、肝心の餡を作っている。その餡の色が妙にあざやかに思えて、荀彧は彼の手元に注目した。
 男は豚のももを取り出すと、すばやい手つきでそれをさばいた。あっという間だが、豚に対して尊敬の念を抱いているような丁寧な手つきであった。何時間も同じ作業をしているに違いないが、男はゆるく微笑し、楽しむように餡を作っていた。
「旦那、ここらにしておこうか」
 主人が声をかけると、包丁を握った男は「ああ」と頷いた。顔を上げたその男と、荀彧の目が合った。男の溌剌として印象的な目が、一瞬射ぬくような鋭い光を映じた。
 男は知り合いを見つけたかのように、嬉しそうに笑った。記憶を探ってみるが、荀彧の方には覚えがない。人違いされたのだろうかと、落ち着かなくなった。
 荀彧は自分をいぶかしげに見ている売り子に気づいて、情けないような気の抜けた笑みを浮かべた。
「姉さん、私にも一つくれるかな」
 そう声をかけて、売り子に銭を手渡した。
「待て待て。今から蒸すから、そっちを食べろ」
 男が手ぬぐいで脂ぎった手を拭きながら、表へ出てきた。そのまま汗をぬぐいながら、衣の袖を肩までまくり上げる。
 饅頭屋にしては引きしまった腕で、手首や顔だけが日に焼けていた。
 蒸籠に、包んだばかりの饅頭を並べてふたをする。そして改めて荀彧の姿を眺めて、口角を上げた。荀彧より年上だが、その表情にはどこかいたずら小僧のような愛嬌がある。
「旅人か」
「ええ。あなたは?」
 饅頭屋ではなかろう、という意味を含めてたずねた。
「俺か、俺は厨房泥棒かな」
 男は笑いながら答えた。隣りに立っていた売り子の女が、「変な人なんですよ、この人は」と話に入ってきた。
「どうしてもうまい饅頭が食べたいから、自分に作らせろって」
 売り子はわざと文句っぽい口調を作り、男は笑ってそれを聞き流した。
「知っているか。この濮陽には、ろくな饅頭屋がないんだぞ。古い肉を使ったり、野菜の分量が多すぎたり」
 饅頭屋で饅頭の文句を言うなど、まるでけんかを売っているようだが、店の者たちは苦笑しながら男の口上を聞いていた。
 男の口調は、長年連れ添った女房の悪口を言うようであった。それに男の声には、耳奥にしみこみ胸を揺さぶるような、ふしぎな心地よさがある。
「豚のいろいろな部位の肉を混ぜて、やさしく叩いてやるんだ。そうすると食感がよくなる。そこへ野菜をざっと混ぜると、この特製の饅頭ができるというわけだ」
 男は奇術でも見せるように、得意げな顔で蒸籠のふたを取った。ふかしたての甘い匂いが広がり、男の口上も合わさって、荀彧は垂涎した。
 男が荀彧の手に、熱い饅頭を渡そうとしたそのとき、陰から突然少年が飛び出してきた。少年は勢いよく荀彧にぶつかりながら、蒸籠から饅頭をかっさらい、あっという間に小路の先へ駆けて行く。
 見事に転んだ荀彧の鼻先に、手からこぼれた饅頭が落ちてきて、地面に叩きつけられた。
「あいや、私の饅頭が」
 荀彧は無残な姿になった饅頭を見つめて嘆いた。
 男は少年の早業に呆気にとられ、「厨房泥棒の次は饅頭泥棒か」と呟いた。
「早く捕まえておくれよ」
 男の背中を、売り子が叩く。
「仕方ない、灸をすえてくるか」
 男は店を出て、子どもを追いかけた。悔しさしきりの荀彧も、男のあとを追った。
 少年はすばしっこく、大通りに出ると、人混みのなかを器用にくぐり抜けて逃げた。男はその背をまっすぐ追うのはあきらめ、まわりこもうと脇道へ走る。
「あんたはこのままあいつを追ってくれ」
 男は後ろを走って来た荀彧に声をかけた。荀彧は合点して「饅頭泥棒、待たぬか」と呼ばわりながら、少年を追いかけた。
 荀彧の声を聞きつけた通行人が、少年の細腕をつかもうとする。しかし少年は通行人をつき倒し、小路へと逃げこんだ。
 通行人に手を貸している間に、荀彧は少年の姿を見失ってしまった。
 男と少年を探し、荀彧は市から少し離れたところを歩いていた。すると通りの先で、厨房泥棒の男が、こちらへ手招きしていた。
 男のそばへ行くと、崩れた壁の向こうから少年の声が聞こえた。そっとのぞいてみると、人気のない家の軒先に幼い兄妹が座り、一つの饅頭を分け合っている。二人ともぼろをまとい、体中に汚れがしみこんでいた。どうやら孤児のようである。
 二人はまだぬくもりが残る饅頭に、勢いよくかぶりついた。腹を満たせるなら、饅頭でも道ばたに生える草でも関係ないといった様子で、がつがつと口に詰めこむ。しかし饅頭の味が口中に広がると、兄妹の目がこぼれんばかりに見開かれた。
 饅頭を飲みこみ、やっと息をついた少年が思わず「うまい」と声を漏らした。
「うまいだろう」
 どこからか相づちが聞こえて、兄妹の体がはねた。陰から姿を現した男と荀彧に、兄は妹をかばうように立ち上がる。
「君は妹のために盗みをしていたのか」
 荀彧がたずねると、少年は頷くかわりに口をひん曲げた。
「だからといって盗みはよくない。盗めば饅頭屋がつぶれて、君は饅頭を食えなくなってしまうぞ」
 少年は知ったことかといった様子で、そっぽを向いた。その襟を男がつかんで、少年を宙に吊す。少年は妹の手前か、わめきもせず唇を噛みしめて男をにらんだ。
「妹を食わせたいなら働け」
 男が言うと、少年は「おれを働かせてくれるとこなんて、あるもんか」と独り言のように呟いた。
 男は「ある」と断言した。
「ちょうどあの饅頭屋は人が足りてないんだ。さっきの饅頭、うまかっただろ。俺が作り方を教えてやる。そしたら饅頭食い放題だぞ」
 男の言葉に、少年の瞳が輝き頬がふくらんだ。身を縮こませていた妹も、饅頭の味を思い出したのか、もの言いたげに男の裾にすがってきた。
「よし、ついてこい。おまえは濮陽一、いや天下一の饅頭屋になるんだ」
 男は少年を下ろし、その頭を手で包むように叩いた。

天を衝く



 男は店に戻ると、今一度饅頭を蒸した。
「ほら、あんたも腹がへったろ」
 軒先に座って、饅頭をほおばる兄妹の姿を眺めていた荀彧に、男が饅頭を差し出した。念願の饅頭に荀彧がかぶりつくと、兄妹がこちらを見て笑い声をこぼした。
「うまい」
 荀彧はたまらず叫んだ。男も自分の作った饅頭をかじって、納得したように頷く。
 いろいろな部位の肉が混ざっているため、ときにやわらかく、ときに歯ごたえのある食感で、噛むと奥から肉汁があふれてくる。そのうまさと店先の朗らかな光景に、しばし荀彧は恍惚とした。
「泣くほどうまいか」
 荀彧の顔を見た男が、驚いてたずねた。涙は出ていなかったが、気づけば泣きだしそうな顔をしていた。
 荀彧の胸の奥に、むずがゆい感覚があった。ずっと探していたものの姿が、一瞬垣間見えたような、そんな感覚であった。
「天下は大乱。その濁流のなかに、こんな光景があるのかと思って」
「あるさ。人がいれば、どこにだってある」
「人がいれば――」
 荀彧は小路から見える狭い空を見上げた。陽は中天に輝き、大通りから雑踏の声が、波のようにさざめく。
「さて、俺はそろそろ行くかな」
 残りの饅頭を口に放りこみ、男は立ち上がった。荀彧はあわてて、彼を呼び止める。
「あなたの名は」
 男はふり返って、不敵な笑みを浮かべた。
「明日の朝は城門が早く開くぞ、荀彧――」
 男は荀彧の名を呼び、大通りへと姿を消した。荀彧は呆然と、その背を見送った。
 なぜ男は荀彧を知っているのだろうか。
 男に会った覚えはないが、代わりに先日会った袁紹の顔が浮かんだ。そういえば彼も、顔と手だけが日に焼けていた。それは甲冑を身につけ、野を駆けまわる者の特徴であった。

天を衝く



 夜に沈んだ濮陽に、うっすらと朝の空気が漂い始めた。
 濮陽は城と街ごとを城壁で囲んだ、いわば羅城の造りになっており、日没には盗賊などを防ぐために城門はかたく閉ざされ、夜明けとともに開門する。
 城門近くの小屋の軒先で、荀彧は笠を深くかぶり、まどろんでいた。そばにつないでいた馬がなにかの気配を聞きつけて、鼻息を鳴らす。荀彧は気がついて、笠の下から目をのぞかせた。
 街のなかに、いくつかの馬のいななきが響いた。続いて、人馬のそろった足並みが、城門へと近づいてくる。城門を管理する門衛たちのたいまつが、暗闇のなかであわただしく走りまわった。
 分厚い武の気配をまとった一軍が、大通りを通って、城門の前へたどり着いた。
「開門――」
 軍列のなかから、耳に響く印象的な声が聞こえた。
「開門」
 門衛が復唱し、部下たちに命じる。十人ほどの門衛らが取りつき、重たい門は風車のような音を立てて開き始めた。冷えた空気が、門の外から街のなかに吹きこんだ。
整然と並んだ軍列が、夜の荒野へと進発する。笠の下から様子をうかがう荀彧の目が、軍列のなかで異色にたなびく一つの外套をとらえた。左右に並ぶ偉丈夫に比べるといくらか小柄なその男は、物見遊山にでも行くような余裕を肩に漂わせながら、馬上にあった。
「あれが曹操か」
 濃色の外套を見送りながら、荀彧は呟いた。
 曹操の軍は、おもに彼が郷里で集めた五千人ほどと聞いている。無論経験豊かな兵士ばかりではなく、なかには農民や商人の出の者もいる。しかしよく訓練をしているらしく、軍の足並みには乱れがなかった。執拗に続く黒山賊の襲撃に、意気を挫かれている様子もない。守るだけでなく自ら攻勢に転じるとは、曹操軍の士気は思いのほか高いようだ。
 曹軍を送り出すと、門衛らは夜明けまでのつかの間ふたたび城門を閉じようとした。荀彧は馬の背に飛び乗り「やっ」と声をかけて、たずなを打った。
「おい、まだ開門の刻限ではないぞ」
 城門に飛びこんでくる荀彧に、門衛らは驚いて厳しい声を発した。
「すまない、急用なんだ」
 荀彧は立ちはだかる門衛らの頭上を飛び越え、迷いなく門のすき間へと飛びこんだ。

天を衝く



 兗州の西に横たわる雲夢(うんむ)山脈へ向かって、曹操軍は荒野を駆ける。荀彧はうす闇に乗じて、つかず離れずその後を追った。
 黒山賊の総数は十万。半数は戦闘に参加しない女子どもの数としても、まだ五万。
 真っ向からぶつかり合えば、曹軍はひとたまりもない。一番確実な方法は、相手が攻めてきたところを、できるだけ有利な条件で迎え撃つことだ。
 しかし事態は、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなっている。黒山賊は周辺の無防備な村落を襲い、主要道をふさぎ、じりじりと官軍を追いつめていた。いつまでも亀のように首を引っこめていれば、やがて自滅することになる。
 曹操はこの状況を打開するために、先んじて行動を起こした。一見無謀な行動にも見えるが、兵士の力がみなぎっている今が、その最後の機会かもしれなかった。
 果たして曹操はどんな策を用いるのか。荀彧は胸の高鳴りを感じていた。
 雲夢山脈の手前には、淇河(きか)という河が流れている。透き通った水が、山脈の輪郭をなぞるようになだらかな曲線を描いて、さながら神仙が現れそうな明媚な景色であった。
 もうしばらくで河につきあたろうかというとき、“曹”と書かれた軍旗が、朝靄をかき混ぜるように揺れて、合図を送った。すると進軍の速度がゆるまって、騎馬兵らが左右に散った。中央前列には槍などの得物を手にした歩兵が、後列には弓兵が残っている。
 荀彧は辺りに目をこらして、見晴らしのよい丘の方へと馬をうながした。
 河の周囲は凹凸の激しい地形で、東側は切り立った崖、対岸はうっそうとした森が広がっている。曹軍の兵士は傾斜のゆるい斜面を選び、河畔へと降り始めた。河へ降りるのは歩兵のみで、弓兵や騎馬兵は崖の上に身をひそめたようだ。
 するとどこからか、暴の色を帯びた鬨の声が、わっと上がった。曹軍の声ではない。対岸の森のなかからであった。声は森を揺らし、まるで山全体が曹軍へ敵意を向けているようだ。
 歩兵の数はおよそ二千。短刀一つで山の神に向かうような心許ない光景だが、彼らの足並みに迷いはなかった。
 対岸の森が不気味にうごめく。木々の間から、崩れた土砂のような勢いでもって、黒い軍団が流れこんできた。黒山賊の目印である黒い布を、それぞれ頭や腕に巻きつけている。
 黒山賊はためらいなく河へ飛びこみ、水のなかをかき分けて対岸へ渡ろうとした。河は大人の脚が浸かるほどの深さで、おだやかな流れのために、足をとられることはなさそうである。
 黒山賊に、斜面を駆け下りた曹軍が襲いかかった。河があっという間に、人で埋めつくされた。
 曹軍の槍が川面と平行に伸び、敵の喉元を突く。対して黒山賊は、餌にむらがる魚のように集まって、相手の得物を折り、兵士を水のなかへと引っぱりこんだ。
 曹軍の洗練された動きに対して、黒山賊はなりふりかまわず、凶暴な獣のようであった。兵一個の力量のみ比べれば曹軍の方が上手だが、黒山賊はかたまって波のように押し寄せてくる。
 清い水が血と泥で濁り、事切れた賊兵たちの体が、川下へと流されていく。しかし黒山賊の兵の数は、一向に減る気配がなかった。前列が倒れるたびに、押し合いへし合いしながら援軍が出てくる。
 曹操は時期を見て、伏せた兵を投入するつもりであろうが、崖の上は未だ静かである。徐々に空が白み始め、こぼれた日の光が雲夢山の天辺を照らしていた。
 衝突は激しくなり、両軍の屍が積み重なる。黒山賊は仲間の死をものともせず、むしろその屍を踏み越えて、曹軍に迫った。
 曹軍兵士の足が一歩、また一歩と後退する。黒山賊の勢いは増す一方で、気を抜くと飲みこまれてしまいそうだった。兵士らは必死に怖じ気をこらえ、その場に踏みとどまる。
 ――まだか、まだか。
 荀彧はまばたきも忘れて、うごめく群衆、森の動き、空気のにおいに神経を張り巡らした。
 得物を狙う狡猾な虎が、暗闇のなかから絶好の機会を狙っている。その貪欲な視線だけが、辺りに満ちていた。
 と、荀彧の目が、崖のすぐ上にかたまる影へ引きつけられた。いつの間にか弓兵が崖の上に整列していた。そしてその背後に、岩場の陰影に混じってひそむ、騎兵たちの姿が見えた。
 にわかに黒山賊の群れに乱れが生じた。彼らは曹軍に増援の気配はないと確信した。その瞬間、心のたががはずれ、隊列が崩れ始めたのだ。
 そのとき渓谷に、天雷のごとく銅鑼の音が響いた。
 何の音かと黒山賊の間に動揺が走る。銅鑼は崖の上から鳴り響いていた。その音を合図に、曹軍の兵士らは水から上がり、一目散に谷の上へと駆けた。
 その変わり身の早さに、黒山賊は一瞬呆気にとられてから、慌てて「追え、逃がすな」と声を上げた。必死に谷を駆け上がっていく曹軍を、巨大な蟻の群れのような黒山賊が追う。
 背後に迫る賊兵の気配をひしひしと感じながら、曹軍の兵士が急斜面にはりつき、岩をつかんだ。その足を賊兵の男が捕らえる。相手を引きずり下ろそうとした矢先、頭上に突然影が差し、賊兵らは顔を上げた。
 白日の光が、谷を見上げる賊兵らの目を焼いた。強烈な朝日が、夜闇をじりじりと焼く。その強い光を背に受けて、弓兵たちが並列していた。
「放て――!」
 弓が一斉に反り、弦がはじかれた。放たれた矢が雨のように降り注ぎ、賊兵を次々と貫いた。激しい音を立てて矢は降り続け、斜面にはりついていた賊兵は転がり落ちて、黒い壁がはがれていく。
 前線の危機を察知して、森の奥からまたしても黒山賊の援軍が現れた。やがて森から出て来る者はなくなったが、いまや数え切れないほどの賊兵が、河畔にひしめいている。
 彼らは果敢に矢をかいくぐり、谷を登った。個の意思はそこにはなく、どれだけ倒れようとも、相手を飲みこもうという集団の意思だけが存在する。その激しい渦に、荀彧は息を呑んだ。
 曹軍がいくら矢を放っても賊兵の数は減らず、徐々に黒い波が谷の上へと近づいていた。
 するとふたたび、銅鑼の音が響き渡った。先ほどとは調子を変え、どんどんと太鼓を叩くように、一定の律動を刻む。並列していた弓兵らは並び方を変え、互いに間隔を置いて立った。
 河畔にひしめく黒山賊のなかから、「今だ登れ」と声が上がる。しかし斜面に取りついた賊兵らの表情には、とまどいが浮かんでいた。
 抱きついた土のなかから、激しい振動が伝わってくる。それは馬の蹄の音だった。およそ二千の騎馬の蹄が、大地を揺らして近づいてくる。
 これまで荒い息をおさえ、ひたすら時を待っていた騎馬たちがついに立ち上がり、弓兵の間にできた道を一直線に駆ける。そして身を投げるような勢いで、黒山賊の頭上に姿を現した。
 騎馬兵は黒山賊の群れに飛びこみ、すがりつく賊兵を蹂躙しながら、一気に崖を駆け下りた。その怒濤の勢いを表すように、銅鑼が打ち鳴らされる。
 賊兵らは蒼白になって、なんとか迫る騎馬から逃れようとした。森に身を隠そうとする者、崖を登ろうとする者、河を泳いで逃れようとする者。それぞれが混ざり合って、黒山賊はたちまち無力な群衆と化した。

天を衝く



「見事だなあ」
 荀彧は思わず嘆息した。
 曹軍は驚くほど機敏で、統率が取れている。何万という大軍ならば、こうはいかない。寡兵ならではの強さであった。
 寡兵は正面からぶつかれば弱いが、時と地形を味方につければ、ときに何倍の数の敵も相手にすることができる。兵法家・孫子の有名な説をとれば、『彼を知り己を知れば百戦あやうからず』である。曹操は己の能力をよく理解し、最大限の力を発揮できる作戦をとっている。
 そのとき、感心していた荀彧の血の気がさっと引いた。後ろから伸びた刃が、荀彧の首筋にぴたりと当てられている。
 いつの間にか、背後に男が立っていた。黒山賊か、曹操軍か、あるいはただの山賊か。相手はもの言わず、刃を引いて荀彧の首を削ごうとした。
 荀彧は手元の竿を握りしめ、身をよじりながら、それを後ろへ向かって突きだした。竿が男の肩を叩き、荀彧を狙っていた刃がぶれた。
 荀彧は身をひるがえし、低い体勢で竿をかまえた。
「何者だ」
 問いただしながら、相手の剣をたたき落とそうと手首を狙う。しかし相手は手首を返し、剣で竿の衝撃を受け止めた。金属同士がぶつかる、耳障りな音が鳴った。
「ほう、荷をつるすだけの竿ではないのか」
 聞き覚えのある声に、荀彧は驚いた。しかしそれを確かめるひまなく、男が攻勢に出る。男が剣を振るうたび、濃色の外套が風にたなびいた。
 兜の陰になった顔を、朝日が照らす。いたずら小僧のような不敵な笑みを浮かべて、男が荀彧の竿をはじいた。その衝撃に、荀彧は思わずひざをついた。
「あなたが、曹操であったか」
 甲冑に身を包んだその男は、まちがいなく昨日の厨房泥棒であった。曹操は剣を鞘におさめ、荀彧に手を貸した。
「来るのが遅いと思ったら、こんなところで悠長に見物か」
 荀彧が必ずついてくると、確信していたらしい。荀彧は気恥ずかしそうな顔をして、立ち上がった。
「将軍のお手並みを拝見しようと思いまして」
「ほう。それはぜひ、先生の感想をうかがいたいところだが――」
 曹操の視線が、遠く下流へ走った。黒山賊の血が流れていくそのずっと先に、川を渡る黒い一団が見えた。
「別働隊です。将軍のいない濮陽へ向かっている」
 曹操が城の外に出ている今、濮陽の守備は薄くなっている。もしかしたら黒山賊も、曹操が城を出るこの機会を待っていたのかもしれない。
「ゆっくり話しているひまはないようだな。荀彧、来い!」
「はい」
 曹操と荀彧は馬に飛び乗り、兵士らの元へ戻った。
 曹操はすぐに軍を編成しなおし、急ぎ下流へ向かった。荀彧は先頭を駆ける曹操に、馬首を近づけた。
「先ほどの感想ですが」
 激しく地を打つ蹄の音に負けぬよう、声をはり上げた。
「将軍は機を見るに敏。今日は黒山賊に、大いに打撃を与えることができました」
 遠くに黒山賊の群れが見えてくる。
「しかし明日は勝てません」
 荀彧の言葉に、曹操は眉を寄せた。しかし怒りはせず、後ろについてきている兵士らをふり返って、突撃の合図を送った。
 曹軍は段差を飛び越え、眼下に現れた黒山賊に向かって突撃した。背後をつかれた黒山賊は、動揺するもすぐに体勢を整えて、曹軍に向かってきた。
 曹軍と黒山賊が入り混じり、たちまち辺りは乱戦となった。
「では、どうしろと言う」
 曹操は目の前の敵を足で蹴りつけながら、荀彧へ向かって叫んだ。
「将軍はあの雲夢山を制するのに、一本一本木を切るおつもりですか」
 荀彧の前にも敵が現れた。彼らは二、三人で一組になり、連携して攻撃を仕掛けてくる。荀彧は器用に竿をふりまわし、次々と相手をなぎ払った。
「火を用いてはどうだ」
 曹操がからかうような口調で返す。
「死の山を手に入れて、どうなさいます」
 荀彧は雲夢山を抱くように、両手を大きく開いた。
「木を切る必要も、燃やす必要もありません。ありのまま手に入れるのです」
 無防備な荀彧の懐に、賊兵が飛びこんでくる。曹操がすかさずその間に入り、賊兵を一刀のもとに斬りふせた。
 そこへ今度は三人一組になった賊兵が、間断なく飛びかかってきた。馬の足を狙おうとする男の頭に、曹操が剣を振り下ろす。その剣を手元へ戻すより早く、二人目の男の刃が曹操の鼻先へ迫っていた。
「曹操殿!」
 背後から放たれた荀彧の声に、曹操は剣を捨て、体を大きくのけ反らせた。曹操の頭上を、背後から伸びてきた竿がかすめ、賊兵の刃とぶつかりあった。
 荀彧が両腕をひねると、竿が刃のまわりを一回転し、賊兵の手から得物をもぎとって空中へと跳ね上げた。曹操は上体を起こしながら落ちてきた剣をつかみ取り、その刃で三人目の男を貫いた。
「この山のような黒山賊を、飲みこめというのか」
「あなたの得意ではありませんか。昨日の子どもたちのように」
 敵を殺すのではなく、味方に引き入れてしまう。昨日までの脅威が、そのまま己の力に転じる。うまくいけば、一等効率のいい方法である。
「簡単に言ってくれる」
 子どもと黒山賊の群れでは、わけが違う。しかし曹操の口元には、笑みが浮かんでいた。
「荀彧、策を言え」
 必死で向かってくる黒山賊を前に、曹操は荀彧に問うた。
「はい。ここはあえて逃がすのがよろしいかと」
 曹操はすぐに心得て、わざと包囲のうすい部分を作った。黒山賊は誘われるままに、曹軍の間にできた道へなだれこむ。曹軍は追撃もほどほどにして、その場に留まった。
 去りゆく黒山賊の背を見送りながら、曹操は胸をふくらませて大声を出した。
「この曹操のもとで働け! 俺がおまえたちの意思を継いでやる。天下を変えたいなら、曹操につけ!」
 続いて副将、兵士らが彼の言葉を復唱した。
「天下を変えたいなら曹につけ!」
 その言葉は、曹軍の兵士たちの心にしっくりと寄り添うらしい。末兵に到るまで、皆その言葉を己のもののようにして叫んだ。
 ――意思があるならば、曹につけ。曹操が万民の意思を継ぐ。
 取りようによっては、曹操が反乱軍の味方をして、国に刃向かおうという意味にも聞こえる。しかしそんな誤解も恐れず、曹操は快活な声で繰り返した。
 曹操の放った言葉の矢が、一瞬の閃きをもって、黒山賊のなかへ飛びこんだ。官軍と賊、その両者は決して善と悪ではない。その本質は、実は同じなのではないか。
 稲妻は、荀彧の胸にも轟いていた。

天を衝く



 赤く空を染める夕日に背を焼かれながら、曹軍が濮陽へと帰りついた。快勝の知らせはいち早く街に届いており、人々は凱旋した曹操らを歓声で迎えた。
「おまえたち、よく戦った。今宵は飲んで騒げ」
 曹操の言葉に、兵士たちは喜びの声を上げた。
「その前に俺は野暮用だ。荀彧、つきあってくれるか」
 用というのは、東郡太守・王肱への報告であった。
 曹操の来訪を伝えに、取り次ぎが奥へと入って行ったが、なかなか戻ってこない。随分待たされてから、ようやく中へ通された。
「お待たせしましたな」
 王肱は曹操より年上の男だが、怯えるような目で彼を見る。
「快勝だったそうですな。あの手強い黒山賊相手に、いやお見事」
 祝いの言葉を口にするが喜色はなく、むしろ曹操の勝利をどこか苦く思っているような様子であった。
「我々の力など、微々たるものです。今日はなんとか退けることができましたが、次は太守殿のお力もお借りしたい」
 曹操は王肱の様子にはかまわず、率直に話した。
 本来ならば、黒山賊に主としてあたるべきは王肱である。しかし王肱は城にこもり、なかなか兵を出そうとしない。どうやら東郡を守る二人の間にも、思惑の違いがあるようであった。
 王肱は唇の端を引きつらせた。
「黒山賊は大軍。下手に攻めるより、守りをかためるのが肝要ではありませんかな」
「もはやそのような猶予はありません。我々の死期は、すぐそこまで迫っている」
 王肱はまるで曹操に脅迫されたように青ざめて、そして突然怒りだした。
「こちらが下手に出ておれば、つけ上がりおって。太守に向かってその無礼な態度、傲慢なものの言い方。さすが宦官の家の出だ!」
 王肱の言葉に、曹操の顔色がさっと冷める。曹操の鋭い眼光が王肱を突き刺し、彼は「ひっ」と声を詰まらせた。
「お褒めいただき、ありがとうございます。では、これにて――」
 曹操は口元に弧を浮かべ、踵を返す。荀彧はあわてて彼のあとを追った。
 曹操の祖父は、宦官の曹騰(そうとう)という人物である。宦官は子孫を残せない。しかし四代の皇帝に仕えた曹騰は、数々の功績が認められて、養子を取ることが許された。曹操は、祖父が取った養子の子である。
 去勢をし皇帝の懐に入りこんで立身出世をする宦官は、世間ではとかく卑しいものと思われている。直接血のつながりはなくとも、その財産や権力を引き継ぐ子孫も、同様に厭われる風潮があった。
「戦果をそのまま、袁紹殿にご報告なさるのがよろしいと思います。あのような人物では、とても黒山賊を相手にすることはできません。きっと曹操殿を代わりの太守にするよう、袁紹殿が上表して下さるでしょう」
 荀彧が肩をいからせて言うと、先を歩いていた曹操がふり返った。
「怒ってるのか」
「曹操殿は腹が立たないのですか」
 官として公に仕えれば、周囲はあのような人間ばかりである。いちいち腹を立てていてはきりがない。しかし戦局を見極められず、その上曹操の素性まで持ち出す王肱に、嫌悪を覚えずにいられなかった。
「俺が東郡を盗りにきたのではないかと、びくびくしてるんだ。袁紹も援軍と称して冀州を乗っ取ったからな」
 悪態をつかれた本人だというのに、曹操は世間話のように語った。
「それに宦官の家というのは決まり文句だ。聞き飽きたよ」
「ですが……」
 食い下がる荀彧に、曹操は「お前が怒ることはないだろ」と笑った。
 そういえば曹操とは、昨日会ったばかりである。その男に自分は肩入れしているのだろうか。荀彧はなんとなく面映ゆくなって、砂埃で汚れた頭をかいた。

天を衝く



 曹軍が駐屯するのは、街の西南の一角であった。風に乗って、にぎやかな声と酒や料理のよい香りが漂ってくる。
 火が焚かれ、鎧を脱いだ兵士らが酒を片手に集まり、肉や豆を炙っている。つかの間の休息に、皆くつろいでいるようであった。
 曹操と荀彧が輪の外へ腰を下ろすと、部下が杯を用意した。
 一旦ざわつきがおさまり、兵士らが期待と親愛の目で曹操を見守った。曹操は彼らをぐるっと見まわして、なみなみと酒のそそがれた杯を頭上に掲げた。
「曹将軍、万歳」
 兵士らの声が、燃えさかる焚き火よりも熱く高く上がった。
 曹操は杯をあおると、濡れたひげを指でぬぐった。
「おめでとうございます」
 荀彧も曹操に杯を捧げた。
「ああ」
 曹操は祝辞を受けとったが、その表情はあまり浮かなかった。喉をうるおすと、曹操はあまり料理にも手を出さず、くつろぐ兵士らの様子を眺める。
「今日は何人死んだかな」
 喧噪に消されてしまいそうな、低い呟きだった。
 大将らしからぬ、意外な言葉であった。犠牲の出ない戦はない。死んだ者の名前どころか、正確な人数すらわからぬこともある。
 ましてや大将である曹操が、一人一人の兵士の顔を知るわけはない。それでも彼の目には、生き残り勝利に酔う兵士らと同様に、ともに帰ってくることができなかった者たちの姿が映っているようだった。
「人が、死にすぎますね」
 他にかける言葉が見つからなかった。
「おまえは誰かに仕えないのか。袁紹の誘いを断ったんだろ」
 曹操は唇を濡らすように酒を飲みながら、荀彧にたずねた。
 荀彧はうつむき、酒面に目を落とした。水鏡に、荀彧の沈鬱な顔が映る。
「曹操殿は、なぜ戦うのですか」
 水鏡に問うように、荀彧は言った。
「俺か。さてなあ……鬱憤晴らしかな」
 曹操は首を傾げた。
「世間への憤りだとか、正義感だとか、そういうまっとうな理由は俺にはない。だが目の前に盗っ人がいれば捕えるし、腹の立つやつがいれば殴ってやろうかと思う」
「それが鬱憤晴らしですか」
 曹操は笑っているのか、怒っているのか判然としない表情で、星空をあおいだ。
「昔から俺のなかには、自分でもどうしようもない衝動がある。それをぶつける相手が、時に腐敗した政治であり、董卓であり、賊だっただけだ。だが最近、それは逆ではないかと思えてきた」
 曹操は自分の感覚を確かめるように、少し言葉を切った。
「俺の衝動は、俺をそうしたものと戦わせるために、天が押しつけたものではないかとな」
 天とは、漢人にとって神と同意である。その天に対して不遜な口を叩く曹操に、思わず荀彧は笑い声をもらした。
「では次は、あなたは何と戦うのですか」
 荀彧は杯を置いて、曹操に挑むようにたずねた。
 曹操は荀彧の目をまっすぐ見返してから、おもむろに立ち上がった。そして人差し指を、荀彧の眉間の間へ向けた。
 荀彧はいぶかしげに、曹操の指を見る。
「その瞳の先にあるものだ」
 曹操は荀彧の目を指さしていた。
「荀彧、おまえはどこを見ている」
「私が見ているもの――」
 荀彧の瞳に、火のまわりに集う兵士たちの影が映った。
 酒でゆるんだ誰かの唇から、素朴な歌が流れ出す。すると他の兵士たちも、ともに歌い、音頭を取り始めた。きっと彼らの故郷の歌なのだろう。
 彼らは故郷に家族を置いて、曹操とともにいつ終わるとも知れぬ戦いに身を投じている。ふたたび故郷の土を踏めるかどうかもわからない。しかし彼らは、死ぬために戦っているのではない。ただ今日を、明日を生きるために戦っている。自分が生きるため、家族を生かすために戦っている。
 それぞれ個々の意思はあるものの、彼らは生きるという目的のために、曹の旗の下へ集っている。いや、濮陽の人々も、黒山賊も、大地に生きるすべての意思は、その目的に通じているはずである。
 荀彧は広がる大地に思いを馳せるように、天をあおいだ。
「私が見ているのは、人です。他のどの生き物よりも弱く醜く、そして強く美しい。乱世の源を、人心の乱れ、政治の汚濁と、皆さまざまに言います。けれどそれはどれも正しくない。人が生きようと、前へ進もうとする意思が天を衝いて揺るがす。それが乱になるのです」
 これまで荀彧の目が映してきた光景、世界の喧噪、熱砂の温度、手にふれた剣や人肌の感触。それらが脳裏で一気に弾けて、ひとすじの道へとつながっていく。
「天下とは万民の意思、それを揺らすは衝動。今の世に必要なのは、天下の背を押してやることです。実際に先へ進むのは、天下自身なのですから」
 心の臓にからまっていた鎖は消え去り、体の奥から、熱く輝く荀彧の想いがあふれていく。
「私の“王”は天下です。私は天下を助けたい」
 兵士たちの合唱が響き、火を囲んで踊りが始まった。その赤い光が、荀彧の濡れる瞳のなかで燦然と輝いていた。
「ならば、俺はおまえを助けよう。俺の次の相手は、天下だな」
 曹操の顔を見上げた荀彧の瞳から、淇河の水のように透き通った涙がこぼれた。すると曹操は表情を崩して、この上なくやさしい顔で笑った。
「おまえの目を見ていると、俺は先に進みたくなる。無性に生きたくなるよ、荀彧」
 曹操は荀彧の肩をたたいて立たせると、兵士らの輪のなかへ誘った。そして彼らと肩を組み、一緒になって故郷の歌をうたった。
 荀彧は情けない顔で笑って、見よう見まねで踊り、声を合わせた。すると自分でも聞いたことがないような、晴れやかな声が体の奥から飛び出した。
 思えば、目の前にあるものを探して、随分と遠まわりをしてきたようだ。
 ――太陽の輝きや、空に平臥する巨獣にふれることは、やはり私にはできない。
 人々の歌声と熱気が一体となり、炎に乗ってまっすぐ空へ立ちのぼっていくのを、荀彧は見送った。
 ――ああ、こうすればいいのか。
 荀彧は微笑し、炎を押し上げるように、高らかに声を上げた。


(了)