囚われ人

 燐光をたたえる空に、黒い雲がインクのように流れている。
 雲間からもれる青白い光が、立ち並ぶ建物群のシルエットを、闇の中から浮かび上がらせた。
 私は階段を下りると、運河沿いのベンチに腰をかけた。
 となりには、黒い山高帽とコートを着た男がすでに座っていた。
 私と男は公園に置かれた彫像のように、黙って、静寂の世界に身をゆだねた。
 きっともうすぐ、あの建物の陰から陽光があふれ、私たちの目を洗うだろう。
 それか頭上から夜のとばりが下りてきて、私たちはそれぞれの家へ帰り、深い眠りにつくのかもしれない。
 そのどちらとも取れる、微妙な景色であった。
 いずれにせよ、もうすぐわかるだろう。
 しかしいつまで待っても、変化は訪れなかった。
「どうしたんです?」
 落ち着きをなくし始めた私に気づき、男が口を開いた。
「今は朝ですか? 夜ですか?」
 私の問いに、男は表情を変えずに答えた。
「どちらでもありません。ここは一瞬の永遠の世界。世界が最も美しい、その瞬間です」
 男の言葉に私は青ざめて、もう一度景色の一つ一つを確かめた。
 流れ去った雲が、また流れてきた。少しずつ変化したように見えた景色が、気づけば元に戻っていた。
 数枚のフィルムの映像を、繰り返し見ているようであった。
 男の言う通り、おそろしいほど美しい世界だった。しかし私が本当に欲している重要なものが、この世界にはなかった。
 男は私の心中を読んで、せつなそうに目を伏せた。
「どうしても“それ”を求めるというなら、あなたの胸ポケットを探してごらんなさい」
 男の言葉に従って、私は自分の胸へ手をあてた。ポケットの中に、金属のかたい感触があった。
 中から、銀の腕時計が出てきた。
 細い秒針がかすかな音を立てて、時を刻んでいる。
「戻ってきたくなったら、いつでもおいでなさい。ここは永遠に変わらず、あなたを待っていますよ――」
 秒針の音が次第に大きくなる。それはついに時計塔の大きな鐘の音に変化し、世界に鳴り響いた。

 カン、カン、という耳障りな音が、私のまどろみを破壊した。
 牢の中に満ちた、異臭と不快な湿気が、五感に流れこんでくる。
 片手にランプを持った看守が、鉄格子に警棒を叩きつけながら、通路を歩いてきた。
 看守は牢の中に一瞥くれると、足下にパンと水の入った皿を置き、汚れた革靴で、それを鉄格子の中へ押しこんだ。
 私は飢えた野犬のように飛びつき、かたいパンをくわえ、わずかな水をすすった。
 急いで空にした皿を通路へ突き出すと、看守がそれを回収していく。
 その一連の動作が終わると、牢は再び暗闇に沈んだ。
 窓のない息苦しい空間の中で、私はひざを抱えて思考する。
 今飲みこんだのは朝食か、夕食か。あるいは一日一回きりの食事だろうか。
 囚人に与えられるのはパンと水だけで、他には光も時計も言葉も、何も与えられない。
 外は夏だろうか。それとも冬だろうか。
 私がここへ入れられてから、どれほどの月日が経ったのだろうか。
 もしそれがわかったとしても、この牢の中で朽ちていくという私の運命は変わらない。
 それでも私は、時を求めていた。
 その想いはたちまちふくれあがって、ついに私の体をつき破った。
 私は割れるような叫び声を上げ、牢の中を転げまわり、しつこく鉄格子を揺さぶった。
 すると憤怒の形相で看守が駆けつけて、罵声を浴びせながら、私を踏みつけた。
 苦悶と苦痛が次第に一つの渦になって、私の意識を飲みこんでいった。

 目の前の幻想的な光景に、私は思わず息を呑んだ。
 まるで世界が一瞬だけ手を開き、その秘め事を打ち明けているような、そんな光景だった。
 きっとここになら、私の探しているものがあるに違いない。
 私はゆるやかに流れる運河のほとりへと、階段を下り始めた。