桃花源郷

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文芸サークル・史文庫様発行の歴史小説アンソロジーⅡ『もっとあたらしい歴史教科書:世界史C』へ寄稿した作品です。
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 あいにくの雨に、荀(じゅん)家の家人たちは大騒ぎで、婚礼の支度にかかっている。
「景倩(けいせん)殿、私も何か手伝おう」
 見かねた傅嘏(ふか)(字(あざな)・蘭石(らんせき))が、新郎の兄に声をかけた。
 荀顗(じゅんぎ)(字・景倩)は、涼やかな目元に焦りを浮かべながら、苦々しげに頷いた。
「客人にこんなことを頼んで、面目ない。日を改めようと言ったのだが、あの強情者が承知しなくてね」
 強情者とは、新郎の荀粲(じゅんさん)(字・奉倩(ほうせん))のことだ。彼は自分でこうと決めたら、人の意見には耳を貸さない男である。
「そういえば奉倩は、身支度中ですか」
 邸内を荀顗と駆けまわるが、荀粲の姿を見かけない。たずねると、荀顗はいっとう重い荷物を、傅嘏の腕へ落とした。
「迎えに行った」
「花嫁を迎えに行くのは、夕刻でしょう」
「そうだろう? それが普通だと、君も思うよな」
 荀顗は憤りを抑えきれなくなったのか、声高になってまくし立てる。
「婚(こん)というものは、単に男と女を結びつけるものではない。家と家を結び、一族の繁栄のために行う重要な契約だ。ゆえに、婚礼の正しいあり方というものが、〝六礼(りくれい)〟として古くから伝えられている。仲人を通じて両家の調和をとること、占いにより慎重に事を進めることなど、六礼に示されている事柄はどれも、正しい婚姻において重要なものだ。最近はこのような形式が軽視される傾向にあるが、我が家は荀子から五百年続く家柄。我が家が手本を示して、まだ生まれたばかりのこの国の、筋というものを作ってゆかねば」
 四百年続いてきた漢王朝が、ついに幕を下ろし、最後の帝である献帝が、臣下の曹丕(そうひ)に禅譲(ぜんじょう)したのが、今より十五年前のこと。漢代末期から世は大きく震え、人々の価値観も変容しつつある。荀顗の憂いも、もっともであった。
「だというのに、あいつはまったく、自分の立場というものがわかっていない。恭公(きょうこう)殿の娘が美人だという噂を聞くやいなや、その顔を見に邸に忍びこみ、あげくすっかり惚れこんで、妻に迎えるなどと勝手なことを言いだした。荀家の面目は丸つぶれだ」
 荀顗は奥の部屋へたどり着くと、いらだちそのままに重い荷を床へ放った。
「こんな婚が、うまくいくわけがない」
 そう言いはなった時、表の方から、人のざわめく声が聞こえてきた。
 二人が表に出て行くと、花嫁飾りをした小さな馬車が、いきおいよく庭に飛びこんで来たところだった。
 車を引く馬に跨がっているのは、他ならぬ新郎の荀粲である。
 真紅の衣装をまとい、整えた髪の上に冠をかぶっている。ふだんのだらしない姿からは想像できない、凜々しい花婿姿であった。
「おい粲、どういうつもりだ」
「兄上、ちょうどいい。手伝ってくれ」
 駆けつけた兄の方へ傘を投げると、荀粲は車の戸を開いて、中へやさしく声をかけた。
 荀粲の呼び声に応じて、内から白くほっそりとした手がのびてきた。荀粲がその手を引き寄せると、小さな悲鳴をあげた新婦が、彼の腕の中へ飛びこんだ。
 真紅の華やかな衣装が揺れ、焚きつけられた香の芳(かんば)しいかおりが広がって、周囲に集まった人々の鼻腔をくすぐる。まるで、天女が空から落ちてきた瞬間のようであった。
「そら、どいたどいた」
 新婦を抱きかかえると、荀粲はぬかるみを踏むのもかまわず、母屋へと走りこむ。
 傘をさした荀顗が、あわててそれを追いかけた。

 宵に始まるはずの宴が昼に早まり、家人はいっそうあわただしく駆けまわって、客人たちも戸惑いながら杯を交わしている。しかし新郎の荀粲は主役の席で、終始笑顔であった。
「奉倩、おめでとう」
 傅嘏は頃合いを見て、めでたく妻を迎えた友人に声をかけた。
「おう、蘭石か」
 荀粲の不遜な口調はいつも通りだが、嬉しくてたまらないといった様子である。佳人をもらったことがそんなに嬉しいのかと、彼の隣りに座る新婦の姿をちらりとうかがった。
 目元を隠すように絹をたらした新婦は、傅嘏の視線に気づくと、やわらかな笑みを返した。芙蓉の花が開いたような笑顔である。
「おい、人の妻をあまりじろじろ見るなよ」
 荀粲がどこか得意そうな、意地の悪い笑みを浮かべる。
 傅嘏は咳払いして、「新婦殿も、おひとつ」と、酒の入った瓶子(へいし)を向けた。
 新婦の曹回(そうかい)は酌を受けると、紅で彩られた唇をそっと杯につける。その上品な所作は、さすが名家の令嬢といった雰囲気である。
 荀粲も、おまけに傅嘏も、彼女が杯を傾けるのに見とれていた。すると曹回は、息つぎもせず、一息に杯をあけてしまった。
 あぜんとして見ていると、曹回は二人に微笑んで見せて、次の瞬間、魂が抜けてしまったように、その場へ倒れこんだ。
「回!」
 荀粲は、力を失った妻の体をあわてて支えて、頬を叩く。
 騒然となる会場の中、人々を気抜けさせるように、新婦は静かな寝息をたて始めた。

 荀粲は名族・荀家に連なる人物で、父は魏(ぎ)の太祖(たいそ)・曹操(そうそう)を支えた名参謀の荀彧(じゅんいく)である。一族には優れた人物が多く、荀粲の兄たちも続々と政界に入り、活躍している。ところがこの末っ子の荀粲だけは、少し様子が違った。
 いい年になっても出仕せず、気ままにその日暮らしをしている。阿呆なのかと思うとそうではなく、政治・宗教・文学、何を議論させても人に負けることがない。
 傅嘏も、若くしてその名を世に知られた俊才であったが、荀粲と議論を戦わせて、初めて負けを知った。
 荀粲の才能は誰もが認めているが、性格に難があり、彼とつきあえる人間はほとんどいなかった。
 そんな変わり者の妻となった曹回の方は、恭公と諡(おくりな)された曹洪(そうこう)の末娘である。曹洪は曹操のいとこにあたり、荀粲の父と同様、曹操の腹心だった人物だ。つまり二人の婚は、名家同士の婚ということになる。
 とはいえ末子同士の婚ゆえ、儀式は小規模なものであった。しかし婚礼の様子が人づてに伝わり、二人のことは何かと世間の噂になった。荀粲の変人ぶりは元より有名であったが、曹回の美貌と、その様子の変わりぶりは特に、人々の好奇の目を集めた。
 曹回は父・曹洪が五十を過ぎてから産まれた娘で、周囲から大変かわいがられ、まるで皇女(おうじょ)のように、邸の奥で大切に育てられた。
 そのため世間のことは何も知らず、料理や洗濯という、嫁としての勤めは何一つできない。幸い荀家には使用人が大勢いるため、嫁が直接手を出さずとも、なんとかなる。しかし使用人が女主人に判断をあおいでも、どうにもはっきりした答えを得られない。困り果てる使用人に、曹回はただ、にっこりと美しく微笑するだけなのだという。
「少し阿呆なのではないか」
 そんなことを言う人もいた。
 世間では口さがない噂も流れていたが、荀家の邸の内では、荀粲と曹回の明るい声が響いていた。二人は打棊(だき)や蹴鞠などをして遊んだり、寝室の表へ一脚の長椅子を置いて、そこで茶を飲みながら語り合ったりして、仲睦まじく日々を過ごしていた。

 しきりに耳に入る噂が気にかかり、傅嘏は荀粲の元を訪れた。
 荀家の門をくぐると、花や木々の豊かな匂いが、傅嘏を包んだ。広い庭に、以前はなかった珍しい花木が盛んに植えられ、さながら宮廷の庭園のような景色に変わっている。
 花にはさして興味のない傅嘏も思わず見とれていると、庭の奥の方から、鞠が跳んできて、傅嘏の足下近くまで転がってきた。
 とっさに鞠を蹴りあげると、奥から走ってきた荀粲が、「お」と声をあげて、落下してきた鞠を器用に頭で受けとめる。
「何してるんだ」と声をかけると、荀粲は「遊んでるんだよ」と、気の抜けた笑みを浮かべた。誰と、とたずねようとしたところへ、庭の奥から荀粲を呼ぶ声が聞こえた。
「今戻るよ」
 傅嘏にかまわず奥の方へ戻っていく荀粲を追いかけると、庭先の長椅子に曹回が腰かけていた。あわい紫色の衣を着て、夫人らしく髪を結いあげている。
 傅嘏がやや緊張して拱手(きょうしゅ)すると、曹回はふっくらとあいさつを返した。その動作は緩慢としており、優雅とも、いささか知恵が足りないようにもとれる。
「あなた、どこまで転がりました」
「門まで転がっていったぞ」
「まあ」
「だが、ちゃんと受けとめた。ほら」
 荀粲は鞠とともに、赤くなった額を見せる。曹回は目を丸くして、軽やかに笑いだした。
「笑いごとではないぞ。痛かったのだから」
 額を差しだす荀粲に、曹回は長い睫毛をしばたたかせ、そして彼の額をなで始めた。
「ごめんなさい」
「なに、どうということはない。お前のためなら、地の果てまでも駆けてゆくさ」
 甘く微笑しあう二人を、傅嘏は呆然と眺めた。目の前にいるのは、本当にあのひねくれ者の友人であろうか。
「なんだ、蘭石。まだいたのか」
 表情をゆるませたままふり返る荀粲に、傅嘏は悪寒を感じて、「いいかげんにしろ」と怒鳴った。

 ようやく客間に通された傅嘏は、ふくれづらであぐらをかく荀粲に向きあう。
「一体どうしたんだ。まるで女狐に化かされているようではないか」
「回のことを悪く言うのか」
 声を荒げる荀粲に、あわてて「奥方のことを言いたいんじゃない。君の様子がおかしいと言ってるんだ」とつけ足す。
「お前に心配されるようなことは、何もない。俺は正気だ」
 傅嘏からしたら、とても正気には見えない。
「その、うまくいっているのか。奥方は、もうこの家に慣れたのか」
 言葉を濁しながらたずねると、荀粲はいぶかしげな視線を寄こす。
「つまらん噂を聞いてきたのか」
「知っているのか」
「兄上が毎日、小言を言っている」
 世間体を気にする荀顗のことだ。荀家の嫁にふさわしくないと、眉間にしわを寄せているに違いない。
「世間の俗物が、かすんだ目で何を見、濁った口で何を言おうが、玉の輝きを貶(おとし)めることはできん」
「たしかに奥方は美しい方だと思うが、妻には容色以外にもっと、大事なものがあるんじゃないのか」
「兄にも、お前にもわからんだろうよ。儒に侵されてしまった目には、彼女の輝きはわからんのだ」
 儒とは儒教のことである。この時代、知者は優れた儒者であることを求められた。しかし荀粲は、兄弟の中で一人だけ、道教の始祖である老子や荘子の、老荘思想を好んでいた。
「道教の伝承によると、世界の創造神は女神だ。伝承の真偽はともかくとしても、人は皆女から産まれるのだから、世界は女から産まれると言ってもいい。まず儒には、この壮大な視点が欠けている。政をするのは男、戦をするのは男。男が常に優位であり、女は奴隷のような扱いだ。政や戦というのは、人間の活動として下位にあたる。もっと根本的な、食うこと寝ること、さらにつきつめれば繁殖すること。これらの活動の方が上位であり、尊ばれるべきだ。そしてそれらを司るのは女だ。儒は道に対し、真理というものをおろそかにしている。人の魂を、理屈で縛りつけようとする。
 女は健康で、休みなく働き、豚のように子を産み続ければいい。容色の良し悪しなどどうでもいいと、そう言った孔子を俺は軽蔑するね。汗水たらして働けばいいのは、男の方だよ。女は女神だ。美しく、魂の純潔があればそれでいい。それこそが一番大事なことなんだ」
 荀粲は声に熱をこめて、このように語った。
 傅嘏は圧倒されるように彼の話を聞いていたが、次第に笑いがこみ上げ、それを咳でごまかしながら、黙って荀粲の話すに任せた。
「何か言い返さないのか」
 拍子抜けした荀粲が、傅嘏の顔をうかがう。
「君が幸せなのは、よくわかったよ。今日は君に勝ちを譲ろう」
 こう傅嘏がからかうと、荀粲は表情を崩して、乱れた頭をかいた。
「私も人の噂は、つまらんものだと思っている。君は君の女神を、大事にするんだな」
「わかっているさ」
 傅嘏はのろけにあてられたと言って、さして長居もせずに帰っていった。

 寝室に戻ると、ちょうど曹回が香を焚いているところであった。ほのかに甘さを含んだ、滋味のあるいい香りである。
 家事はまるでできない曹回であったが、美的感覚に優れており、特別なことがなくとも、毎日美しく着飾り、部屋には花を配し、まめに香を焚いたりする。傅嘏が感嘆した庭の趣向もまた、曹回が指示したものであった。
 曹回が嫁いできてから、邸の雰囲気は変わった。兄は何かと文句を言っているが、この邸を覆っていた、目に見えぬ悲壮感のようなものがうすれて、今は胸の奥をくすぐるような、あわい幸福感が空間に漂っている。
 香から立ちのぼる煙を眺めながら、荀粲は頭をかいた。そして懐から小箱を取り出して、妻に声をかける。
「蘭石をそこまで送ってきたんだが、帰りにいいものを見つけたんだ」
 節の目立つ手が小箱を開けるのを、曹回が近づいてきてのぞいた。
「まあ、きれい」
 中には、翡翠のかんざしが入っていた。手に取ってみると、玉に燭台の灯りが映りこみ、深い慈愛の色が浮かぶ。その色に見入っていると、荀粲がそれを曹回の手から取って、やさしい手つきで、彼女の髪へ挿した。
「よく似合っているよ。その衣にもぴったりだ」
 曹回はかんざしに手をふれながら、なめらかに揺れる衣の袖を持ちあげた。この衣も、荀粲からの贈りものである。荀粲は己の身なりにはまるでかまわないが、妻には度々(たびたび)、美しい衣や装飾品を贈った。
「気に入らなかったか」
 妻の表情がどこか浮かないように思えた。
「いいえ、とても嬉しいわ。ありがとう。私も何か、お返しができればいいのだけど」
「俺は何もいらない。お前がいてくれれば、それだけで幸せだ」
 愛嬌を浮かべる夫に頷きながら、曹回の表情に一瞬、影が浮かんだ。

 翌朝のこと。表から人の声が聞こえて、荀粲はうすく目を開いた。するといつもなら、一番に目に入ってくるはずの、美しい顔(かんばせ)がない。広い寝台には、荀粲一人きりであった。
 ふしぎに思って身を起こすと、庭の方から、何やら騒々しい声が聞こえてくる。荀粲は椅子にかけておいた衣を引っかけて、表へ出た。
「奥様、危のうございます。私どもがやりますから、どうかお部屋にお戻り下さいませ」
 見れば井戸の辺りで、曹回と使用人がもみあっている。
「何をやってるんだ」
 荀粲が声をかけると、それに驚いた曹回の手から、水の入った桶がすべり落ちた。
 重い桶は、吸いこまれるように、井戸の中へ落ちていく。あわてた曹回は、それを捕まえようと、井戸の上へ身を乗り出した。
「おい」
 荀粲が大きな声を出して、曹回を支える。
 曹回は「水が」とぼんやり呟いて、井戸の奥を見つめた。
「危ないことをするな」
 思わず声を荒げた荀粲に、曹回は口をつぐんだ。
 いつものように着飾っているが、結い髪はところどころほつれ、額には汗が浮かんでいる。つかんだ手を開いてみれば、つるべを引き寄せたのか、やわらかい皮が裂けていた。
「どうしたのだ」
「奥様が、家事をなさりたいとおっしゃられて。お止めしたんですが」
 困り果てた様子で、使用人が訴える。
「家のことはしなくていいと、言っただろう」
 すると曹回は、荀粲の手をさりげなくふりほどいた。
「妻になったのですもの。これぐらいさせて下さい」
 そう、頑なに言う。なぜ突然そんなことを言い出したのかとたずねても、曹回はただ、「家事がしたい」と言って譲らない。
「好きにすればいい」
 ついに根負けした荀粲が、放るように言うと、曹回は「はい」と答えた。
 その日から、曹回は妻らしく早起きし、家のことをするようになった。しかし包丁を持つ手もあやしく、火のそばへ立たせればやけどをする。洗った衣にはしわが寄り、掃除をすればかえって埃が立つ。
 いっそ何もしないでいてくれた方がいいと、家人たちは影で言いあった。そんな周囲のぼやきをよそに、本人は満足そうに、家事に勤しんでいた。

 その年の暮れ、大陸の南西から不吉な風が流れてきた。はやり病である。
 荀家ではただ一人、曹回がこの病にかかってしまった。
 高熱を出し、幾日も床へ伏せっている。医者にも診せたが、もともとの体力が弱いため、病に打ち勝つことができないのだろうと言われた。
 幼い頃から、邸の奥で大切に育てられてきた曹回に、体力などあろうはずがない。
 荀粲は昼夜つきっきりで、妻の看病をした。水でしぼった布を、火照った体にあてるが、すぐにぬるくなってしまう。それでも、熱にうなされる妻がかわいそうで、底冷えする夜中でも、何度も井戸から水を汲んできた。
「回、回……」
 呼びかけながら、彼女のやせた頬や手をなでる。嫁いできた時は白かった手が、日に焼け、水にさらされてすっかり傷んでしまった。
 部屋の中では、四六時中火鉢が焚かれ、生ぬるい空気が満ちている。曹回が伏せってから、香のかおりは絶え、今はただ青臭い薬のにおいばかりが不吉に漂っていた。
 曹回が身をよじり、何かに抗うように声を出した。力の入らない腕が、体にかけられている上掛けを、払いのけようとする。
「どうした。暑いのか、重いのか」そう呼びかける声も、曹回の耳には届かぬらしい。
 曹回の魂が、どこかへさらわれてしまうような気がして、荀粲の心の臓は鼓動を忘れた。

「恭公殿の末娘は、たいそうな美人らしい」
「だが、知恵が足りないと聞いたぞ。そのために、嫁のもらい手がないと」
「まあ側室であれば、それでもいいんじゃないか」
 一年前、春の浮ついた空気が漂う街中で、こんな会話を耳にした荀粲は、「ふん」と鼻を鳴らした。
「野豚のような奴らだ」
 しかしふと興味をそそられて、足の赴くままに曹家の邸を訪ねた。
 粗末な身なりの男が来たと、曹家の家人はあやしんだが、荀粲は得意の弁舌で相手を言いくるめ、押し入るように邸内へ入った。
 庭に見とれるふりをしながら、さらに奥まった内庭へ忍んでいくと、一陣の風が吹き、桃の花が散って荀粲の視界を覆った。鼻をくすぐられて思わずくしゃみをすると、東屋にいた娘が、驚き立ちすくんだ。
 桃の庭の中、まるで花の色と同化するような、あでやかな色の衣をまとった曹回がいた。
 彼女の姿を見た荀粲の脳裏に、ある伝説が自然によみがえった。
 道教の神仙の一人に、西王母(せいおうぼ)という女神がいる。彼女は不老不死の仙桃の管理者で、桃の庭の中で暮らしているのだという。
 恍惚となって、もの言うも忘れた荀粲を見て、曹回が鈴のような笑い声をたてた。

 荀粲は桃の庭から女神をさらい、不器用なりに彼女を慈しんできた。しかし無情にも、曹回は病におかされ、今まさに命を落とさんとしている。
 荀粲は後悔をふり払うように立ち上がり、寝室の外へと飛び出した。
 寒空からしんしんと降り積もった雪の表面を、雲間からのぞく月の光が照らしている。
 月の大きな眼(まなこ)の下で、荀粲はおもむろに衣を脱ぎだした。上衣を放り、帯をほどくと、肌衣まですべて体からはがしてしまう。
 身にまとわりついていた死のぬくもりが離れて、凍てついた清浄な空気が肌にしみる。
 荀粲は氷のような石畳に踏み出すと、雪の中へ、ためらいもなく裸身を投げ出した。
 体が雪に沈む音が、にぶく響く。
 雪の上へ倒れ、そのまま死んだように動かなくなるが、しばらくすると突然身を起こして、今度は背中から雪の中へ埋まった。
 青ずんだ空から、無数の雪の粒が、荀粲の方へ向かってくる。肌に吸いついた雪がゆっくりと溶けて、涙のように頬を濡らした。

 外から吹きこんだ寒風が、寝室の灯りを吹き消す。
 荀粲は濡れた体のまま寝台に入って、苦しげな息をくり返す妻を抱きしめた。
 凍った体の感覚が、曹回の熱い体温に溶かされていく。曹回の体にたまった熱が、荀粲の体へと徐々に移っていくようであった。
 しばらくして、意識を取り戻した曹回が、「あなた」と、荀粲の姿を探した。
「ここにいる」
 そう答えた唇は凍り、声が震えていた。
 曹回は荀粲の腕の中で身じろいで、彼の方をふり向く。そして夫の冷たい頬に手をあて、ふしぎそうな顔をした。庭に積もった雪の輝きが、その表情をあわく照らしている。黒く濡れた瞳が荀粲を見つめて、弱々しい指が、彼の睫毛をつついた。
「きれいね」
 指先についた雪を見て、曹回は呟いた。
「雪を持ってきてくれたの? ありがとう」
 贈りものをもらったときと同じように、曹回は嬉しそうな顔をした。先ほどまでうなされていたのが、うそのようである。
「私ね、贈りものをされるのが大好きなの。父上も、あなたも、私にたくさんの贈りものをしてくれたわ。どれも嬉しかった」
「うそだ。偽物の玉をつかまされた時、文句を言っていたじゃないか」
 二人は夜更けに降る雪のように、小さな声で話した。
「あなたをだました人が、恨めしかったから。けれどあなたが贈ってくれたものだもの。大切にしまってあるわ」
 そこで少し言葉を切って、曹回は「ごめんなさい」と言った。
「私は、あなたに何も贈れなかった。妻らしいことは何もできなくて、子どもも産めなくて、病気になって」
 曹回の口から出た思いがけない言葉に、荀粲は息を詰まらせた。それは周囲の人間たちがしきりに言う、曹回の評判であった。
 陰口をたたかれても、曹回はのんきな顔をしていた。それを見て、荀粲はどこか安心していた。彼女の鈍感さが、その純粋な魂を守っているのだと思っていた。しかし、そうではなかった。
 庭の花木も、部屋に焚く香も、どれも過剰に過ぎることはなかった。見る者嗅ぐ者を決して驚かせず、それでいて心に瑞々(みずみず)しい感情をもたらす。そのような気づかいは、人の心に敏感でなければできないことだろう。
 そんな曹回が、周囲からの視線や重圧に気づかないわけはなかったのだ。己を恥じ、懸命に妻としての勤めを果たそうとした。
 妻から与えられていたものの多さに、荀粲は初めて気がついた。
「俺は回から、たくさんのものをもらっている。お返しをしているのは、俺の方だよ。ありがとう、回」
 熱くこみ上げる涙をこらえて言うと、曹回は安心したように顔をほころばせた。
「夫婦になるということは、こうして贈りものをしあうことなのね」
 曹回は冷えきった荀粲の体に上掛けをかけ、彼を包むように抱いた。

 曹回の葬られた墓所に積もった雪が、やがて跡形もなく溶けて、小鳥たちが宙で遊ぶ頃になっても、荀粲はふさぎこんだままだった。
 傅嘏が荀粲を見舞ったのは、ちょうど桃の花が終わる頃であった。
 一年前の春、荀家の庭には、荀粲と曹回のくすぐったい笑い声が響いていた。あの頃と同じように、庭には花々があざやかに咲きほこっているというのに、邸内はからっぽのように静かである。
 荀粲は庭先の椅子の上で、足を抱えて座っていた。疲れきった顔に、苔のようにひげが生えている。幾日も着替えていないのか、衣もくたびれていた。
「君らしくないな、そんなにふぬけて」
 挑発すれば、鋭く噛みついてくるだろうと思ったが、荀粲は何の反応も返さない。
「妻は容色のみで選ぶべき――君は、そう言っていたじゃないか。知性があって健やかで、すべてを備えた才媛を探すのは大変だが、美人ならば、またすぐに出会えよう」
 桃の花が、枝からぽとりと落ちた。しかし木には、まだたくさんの花が残っている。もしすべて落ちてしまっても、来年には再び美しい花が咲くだろう。
 荀粲は石のようにかたまっていた表情をゆがめ、うめき声をあげて膝に顔を埋めた。
「お前にはどれも同じ花に見えるかもしれないが、俺にとっては、心の中に咲いた、一つきりの花だったのだ」
 そして幼子のように、声をあげて泣き始めた。
 傅嘏はかける言葉を失って、気まずいまま荀家を後にした。

 帰り際、傅嘏はふと目についた桃の枝を一つ手折って、帯に挿して持ち帰った。
 それを部屋に飾り、毎日眺めていたのだが、十日ほど経つと枯れ果てて、その花びらをむなしく床に散らした。
 傅嘏は友の泣き声を思い出して、机に伏して涙を流した。

 それから一年が経たぬ内に、曹回のあとを追うようにして、荀粲もまた没した。

〈了〉